武田信玄書状

 中世の猿橋で述べたように、天文から元亀の時代(1570年頃)、猿橋郷の全部または一部が東山梨郡矢坪の永昌院の寺領だった。

 永昌院領の管理や、年貢取立は郡内の領主である小山田家に委託されていたが、この年貢取立がうまくいかなかったらしく、栄昌院の住職から、小山田信有に対して、
    「猿橋の百姓が年貢を納めないので奉行を派遣して検分して欲しい」
と要望書を送っている。  年月未詳だが、元亀三年頃と推定される(大月市史)
 4条からなっており、
    第一条  百姓が年貢を2/3しか納めないので困っている。奉行を派遣して善処してほしい。
    第二条  百姓が穀物以外の勝手な物を年貢として納入するのは困る。
    第三条  年貢として納めたものの内から運送費として借りるのは困る。
などを訴えている。







 





 「猿橋の永昌院領」(大月市史)
 信玄が永昌院に宛て善処する、と回答した書状が残っている。
 天文22年11月8日付、信玄の署名花押のある書状で、けの用か拾た返書で、seishouin若し建てたのでせっっかうeishouinえい弐aねnは武田信玄の曾祖父信昌を開基とし、永正元年(1504)に開創された寺院で、永正の「永」と信昌の「昌」をとった名であろう。
 猿橋の百姓から永昌院への年貢が滞っていることについて、天文22年(1553)11月8日に、武田信玄から小山田信有に皆済させるよう命じたという文書が永昌院に残っている。
 しかし、年貢の取り立ては順調でなかったようで、元亀3年(1572年)8月20日には、永昌院の住職から小山田信有に「猿橋の百姓が年貢を納めないので奉行を派遣して検分して欲しい」と要望書を送っている。  「猿橋の永昌院領」(大月市史)
 猿橋の農民達は領主たる永昌院に年貢を納める立場にあるが、永昌院が直接年貢を集めるのではなく、郡内を領有していた小山田家に領地の管理と年貢徴収を委託していたようだ。 
 
  市史131

 上記は天文20年11月8日付、武田信玄の署名と花押がある古文書で、永昌院にあて、貴寺の領地(猿橋など)からの年貢で難渋している事を承知している。小山田家に命じて善処する旨、申し送っている。
   小山田に命じて弥七郎にしv 方記事eishouinてんp
 
 このような文書を見ると、武田家が治める領地内で、郡内領主である小山田家の管轄地域の猿橋が、実際には遠く離れた寺院の所領だったという、戦国時代の複雑な領地関係がわかる。

 信玄の死後、戦国最強ともうたわれた武田軍は次第に衰退し、織田・徳川軍の侵攻に追われて、岩殿城に逃込もうと笹子峠まで来たところ、岩殿領主小山田軍の裏切りで天目山に落ち行き、武田家が滅亡した経緯は良く知られている。
 
 武田氏が滅亡すると甲斐は徳川家康の支配下に入り、谷村に徳川譜代の鳥居土佐守成次が郡内領主として入る。