竹内てるよ

 戦後、伊良原の入口、左側に町営住宅がならんでいた。ここに竹内てるよという詩人が住んでいた。
 兄が高校生の頃、この詩人に師事し、結構この御宅にも伺っていたが、その頃はそんなに有名な詩人だとは思わなかった。
         兄と竹内てるよ

 ネットなどに紹介されている竹内てるよの略歴は次のとおりである。.

竹内てるよ 略暦

 昭和期の詩人、小説家、霊能者

 生年 明治37年(1904)12月21日  没年 平成13年(2001)2月4日

 出生地 北海道札幌市

 本名  竹内照世

 学歴  日本高女 中退

 主な受賞名 文芸汎論詩集賞(第7)〔昭和15年〕「静かなる愛」

 著書  多数


 著者の自伝ともいえる「海のオルゴール」によれば、祖父は北海道厚岸で裁判官をつとめ、父は札幌でエリート銀行員だったという。
 父は、まだ半玉だった芸者との間に子を設けた。子は祖父夫婦が引取った。母となった芸者とはすぐに別れ、後に母は入水自殺したという。

 幼くして生母に生別し、厚岸で祖父母のもとで幼少期を過ごした。
 小学校3年、10才のとき東京へ出たが、幼いころから病弱で、日本高等女学校を卒業間近で肺結核療養のため中退。

 その後、婦人記者生活となって一家のため生活を支えた。
 20歳の春、結婚、その後、長男徹也が生まれたが、昭和2年春、脊椎カリエスの不治の病と診断され、婚家を追われるように離婚された。
 徹也は里子に出された。。

 以後、病苦と貧困に耐えながら詩作を続け、主としてアナキズム系の詩誌に発表。1930年に第一詩集『叛く』を刊行、その間、神谷暢と協力して、昭和4年渓文社を創設。

 戦後は人生をテーマにした詩や童話などを執筆した。 
 
猿橋への移住
 奇妙な縁で
山梨県大月市猿橋町の町営住宅で暮らしはじめる。

 猿橋へ移ってからも総じて病状ははかははかばかしくなかったようだ。東京にいる時は雑誌や新聞の取材や、座談会などで忙しくしていたが、猿橋ではそうした事も次第に減っていた。しかし「お弟子さん」と称する弟子もいて、町営住宅に訪ねる人も多かったようだ。私の兄もその一人だったろう。
 
 猿橋に住むようになった理由は、「海のオルゴール」には次のように書かれている。「海のオルゴール」猿橋1参照
 
 関東大震災の時、出版社の事務員だったが、東京の印刷会社が操業停止のため、大阪の印刷屋に依頼すべく原稿を持って中央線経由で大阪へ向かった。東海道線が運休していたからだ。
 病身をおしての旅行で、山梨へ入った頃から旅を続ける体力がなくなり、途中下車した猿橋で大黒屋という旅館に泊った。

 その後、戦後になってからも穂高の友人を訪ねての旅行の途中、同じような理由で猿橋で下り、大黒屋に行ったところ、女将は代がわりしていた。この若い女将と仲良くなり、その後も何回か泊りに行ったという。
 東京を引上げ、環境の良いところに住みたいと思って、大黒屋の若女将に相談したところ、町営住宅を紹介してくれた、という事である。
 この大黒屋の若女将、私も知っている。昭和30年頃で40才ぐらいだったか、背の高い美人だった。同級生の州子さんのお母さんである。

息子徹也
 
1才7ヶ月で別れた後、逢う事がなかった息子は木村という家の養子となり成長したが、やくざの世界に入っていた。
 25年ぶりに我子に再会できたのは名古屋刑務所であった。
息子がそのような道に入ってしまったのは自分の責任と考え、出所したら一緒に住んで更生の道を歩もうと約束して猿橋に帰った。
 そして刑期を終えた息子と共に、
猿橋の町営住宅で新しい暮らしを始める。
 息子と一緒に猿橋の町に散歩に行ったシーンは、つかの間だった幸せの瞬間だった。「海のオルゴール」猿橋2参照
 

 東京の方に就職した息子が、また音信不通になっってしまった。ようやく消息がわかったのは、また罪を犯し、今度は横浜刑務所に服役していた時だった。
 面会に行き、出所したらまた一緒に住もうと約束した。
 猿橋の家で待っていた所に現れた徹也はすっかりやせ衰えていた。
 
 息子が帰って来て10日ほどたった日、おりから猿橋の町はまつりだった。
 二人でまつり見物のため、猿橋の町へ出かけている。              「海のオルゴール」猿橋3参照
 桜の咲く季節だというから4月18日のお祭だ。
 みこしが飾ってあった、という記述があるが、これは竹内さんの記憶違いだろう。おみこしのお祭は7月である。

 息子の異常に気づき、病院の検査を受けさせる。
 検査の結果は「舌がん。余命一ヶ月という診断である。本人には扁桃腺異常と云い、猿橋のS病院に入院させる。
 町営住宅の川向こうにあり、夜になると息子の入院した病院の灯が見えたというから、猿橋病院だろう。(当時長谷川病院とも読んでいた。)
 息子はこここで息を引取った。舌がんだったという。 

 「海のオルゴール」は昭和57年(1977)に上梓されている。だから70才くらいまでの自伝である。
晩年
 
 
最晩年は新潟市に住んだらしい。平成13年2月4日、老衰のため永眠。 96才

 墓所は竹内さん自身が先立った息子のために建てた。 自宅から1kmほど東の藤崎妙楽寺にある。 
 妙楽寺の長男が竹内さんの弟子だった縁でここに墓所を得たようだ。
 ひな壇のように積み上がった墓々の最上段に「竹内家」墓があり、
息子とともに眠っている。  


 

 




裏面に詩『頬』の一節が彫られているそうだ。

竹内てるよの葉書
 
最近、ネットオークションで竹内さんの名を見た。
 何かの理由で猿橋を留守して東京代々木に滞在してる時、留守を頼んでいた近所の某氏に送ったハガキと思われる。
 日付は(昭和31年)9月23日とある。


このハガキのオークションに参加しているが落札出来るかどうかわからない。
落札出来ない場合は誰の所有になるかわからないので、左の写真は消去するも知れない

猿橋小唄

 
小学校の頃、「猿橋小唄」という地元の歌を習った。 メロディも、一番の歌詞も、妙に記憶に残っている。
 春夏秋冬の猿橋の見所を歌ったものだが、何とこれが竹内てるよの作詞だという。

 覚えている歌詞の一部を下に記す。

   〽甲州猿橋 春こそよけれ
    恋路峠のおぼろ月 
    架けた橋桁 17間に
    花もち散ります ちらほらと

   〽甲州猿橋 夏こそよけれ
    思い出の滝 柿若葉
    鮎の白銀 やまめの黄金
     ?  ?

   〽甲州猿橋 秋こそ良けれ
     ?  ?   ?


   〽甲州猿橋 冬こそ良けれ
     ?  ?   ?

追記 

 ネット情報によると猿橋の町のどこかに猿橋小唄の歌詞を書いた行燈風の看板があるそうだ。左写真

 これを見れば歌詞の不明なところが補えるはずだ。

 平成14年(2002年)、スイスのバーゼルで開催された交際児童図書評議会(IBBY)の創立50周年記念大会で、当時の美智子皇后がスピーチのに中で、竹内てるよの「頬」を引用した事から、テレビでも紹介され、翌年6月には自伝ともいえる「海のオルゴール」がドラマ化されて、6月28日にフジテレビで放送された。
 このドラマは猿橋が舞台であるはずなのに、猿橋とは似ても似つかない場所でのロケだった。 松雪泰子、八千草薫の好演が印象に残っているが、小さい頃見た竹内さんとはまったく違うイメージだった。
 このドラマについては、下の「ドラマ出演者」の写真をクリックするとドラマ詳細データにアクセスできる。  またはこちら

代表作のひとつ「海のオルゴール」
表紙は棟方志功の版画
ドラマの出演者
主演 松雪泰子、八千草薫