猿橋として川の底千尋にをよび侍るへに、三十余丈の橋をわたして侍りけり。此橋に種々の説有 り。昔猿のわたしけるな ど、里人の申侍りき。 さることありけるにや信用しがたし。
 此橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼どもあつまりて勧進などして渡し侍るとなん。しからば その由緒も侍ることあり。
 所がた奇妙なる境地なり。
   谷深きそはの岩ほのさる橋は人も梢をわたるとそみる
   水の月猶手にうときさるはしや谷は千ひろのかけの川せに
   名のみにしてさけぶもきかぬ猿橋のしたにこたふる山川の声


 此所の風景さらに風景にあらず。すこぶる神仙逍遥の地とおぼえ侍る。
   雪霞漠々渡長梯  四顧山川眼易迷
   吟歩誤令疑入峡  渓隈残月断猿啼
                      (大月市史より)
競石郷は岩殿村、猿橋村をはじめ間野川通10余ケ村往古の郷ならん 今岩殿山大岩にて数百丈山をなし、猿橋宿はひとつ岩の上数百軒余の村里にて橋西脇は数十丈風立ちたる如くの岩石なり  -後略-

猿橋の歴史(1)古代 (出展 北都留郡誌、大月市史、甲州街道歴史資料集など)

 猿橋の地は、東鏡には
    「岩殿、畑倉、林、和田などの邑々とともに競石郷と呼ばれていた」とある。





 大月市史には鳥沢、梁川などと共に福地郷と呼ばれていたとある。
 下図は古代の甲斐国に通ずる官道の図。 籠坂峠を越えて東海道と接続していた。
 この頃の甲斐国府がどこにあったか、定かではないが、東八代郡御坂町国衙、あるいは東山梨郡春日居町国府等の説がある。 。

  「福地郷」の位置  桂川流域、葛野川との合流点より下流に位置。

 古代の官道と福地郷
「倭名類聚抄」の甲斐国の部



 武蔵、相模からの交通は、猿橋が架けられる前は、鳥沢から川を船で藤崎に渡り、伊良原から殿上を経て西に向かったが、橋が架けられてから、街道が今の猿橋の集落を通るようになった。
 
 伝説によれば推古天皇の御代、百済から日本に渡って来た志羅乎が、猿がつながって対岸に渡るのをヒントにして考案した「肘木桁式橋」と呼ばれる特殊な構造の橋を架けたろいう。その伝説をもとに猿橋と名付けられた。