大名行列、茶壷道中
参勤交代
甲州は谷村に秋元氏、甲府に柳沢氏などの大名が居城を持っていた時代もあるが、江戸期を通じてほとんどの期間は幕府の直轄領であった。
従って甲州街道を行き来する大名の参勤交代は信濃の国の大名が主であった。
信濃の国の大名と云っても木曽、松本平、善光寺平、佐久平などの大名は中山道を使って参勤交代をするので、江戸後期に甲州街道を利用する大名は次の3家に限られた。
・伊奈高遠 内藤氏 3万3千石
・伊奈飯田 脇坂氏 5万3千石 後に掘氏 1万5千~2万石
・諏訪高島 諏訪氏 3万石
大名の参勤交代に供する人数は石高によって、時代によって変遷があるが、上記信州3家では概ね150人から200人程度であったと考えられる。
このために宿場には大名一行が宿泊する本陣、脇本陣が設けられていたが、大大名が多くの家臣を供させて往復する東海道に比べると、甲州街道は規模の小さい宿場が多かったので、一度に200人もの宿泊があると大変である。
高遠内藤家は江戸時代初期は中山道経由で6泊の参勤交代であったが、3代目藩主の時から、より短い行程で行ける甲州街道に変更したという。
内藤家の参勤交代を見るといくつかのパターンがあり、
寛政10年(1798) 高遠から江戸 4泊5日 宿泊地 台ヶ原、栗原、犬目、横山
天保11年(1840) 高遠から江戸 5泊6日 台ヶ原、石和、花咲、与瀬、府中
安政5年(1858) 高遠から江戸 5泊6日 台ヶ原、石和、猿橋、与瀬、府中
となっている。 (甲州街道 歴史資料集より)
街道の様子により毎回どのパターンで行くかを決めていたようだ。
猿橋宿も本陣に脇本陣が2軒あり、こうした大名行列の宿泊を受け入れる収容能力があった事がわかる。
茶壺道中
甲州街道では、規模の大きな大名の通行がなかったので、むしろ御茶壺道中の方が街道を挙げての大行列だった。
茶壷道中は将軍家に献上する宇治の茶を入れた茶壺を運ぶ行列である。
幕府から派遣される採茶使は東海道を経由して宇治へ行き、毎年4月から5月にかけて献上茶を入れた茶壺を10万石の格式の行列で中山道、甲州街道経由で江戸に運ぶ。
10万石というと、上記大名3家より格式が高い(人数も多い)ことになるが、「10万石の格式」は単に格式が高いという事で、この行列に出合った大名は駕籠を道端に寄せ、家臣は下乗、冠り物をとり、土下座して通過を見送ったという。
国立国会図書館 蔵
この行列は大月宿まで来たところで、ふじ道に入り、谷村へ行き、茶壺の一部を谷村勝山城に預け、夏場を冷涼?の谷村で保管して、秋になってから江戸へ送ったという。
従って大月宿より東では初夏と初秋の2回、茶壺道中が通過したことになる。
この道中に人足をかり出される街道沿いの村々にとっては大きな負担だった。
「ずいずいずっころばし」というわらべ唄がある。
〽ずいずいずっころばし胡麻味噌ずい、茶壺に追われてトッぴんしゃん、抜けたらドンドコショ
は、「茶壺道中が近づいたら戸を閉めて家中にかくれ、道中が通過したらやれやれ、と息をつく」という意味で、茶壺道中を暗に風刺した唄だという。
茶壺道中 参考資料
都留市図書館 茶壺道中誌(1)
都留市図書館 茶壺道中誌(2)
その他の道中
上記茶壺道中以外にも、街道を賑わした公儀の道中があった。
・御巣鷹道中 御巣鷹山で捕えた鷹を江戸に運ぶ行列
御巣鷹山はJAL機墜落で有名になった群馬県の山だけでなく、狩猟用の鷹を捕獲するために厳重に保護され、指定を受けた山のことで、山国甲斐にはいくつおの御巣鷹山があった。
・追鳥道中 山野で捕えた鳥(雉子)を将軍に献上するための行列