猿橋市場開設歎願 (郡837、市史242)

 
江戸初期、秋元氏が谷村城主の時代、お膝元の谷村と猿橋宿に市場が開設されており、北部都留郡の村々の物資交流の場となっていた。
 しかし、いつの時代かわからないが、猿橋宿に火災があり、市場も焼失した。以後再開される事がなく年月が過ぎた。
 その間に、上野原村に市場が開設されたが、猿橋と近隣の村々の農民は重い荷物を持って谷村あるいは上野原宿まで行かねばならず、大変難渋していた。
 そこで猿橋宿と近隣26ヶ村は市場を再開したいと谷村の江川太郎左衛門代官所に何回も願い出たが、「上野原宿。谷村宿がかれこれ難儀の筋を申し立てて」これが許可されなかった。
 江川太郎左衛門は伊豆韮山の代官であるが、郡内地域が大名領(秋元氏)から幕府直轄領になって、この当時、江川太郎左衛門の管轄地となっていた。

寛政3年の歎願書
 寛政3年6月、猿橋宿は強い意思をもって市場再開の願いを出した(史料A)
 内容は 
   猿橋宿の市場を昔のように再開いたいという願いは何回も出しているが、谷村宿、上野原宿が
   かれこれ故障の儀を申し立て、作冬、願いを取り下げるよう指示ました。
   しかし、近隣の者が難儀しているので今回あらためて次のようにお願いする。
   郡内のように(耕地が少ない土地では)たとえ他国に安い物資があっても、
   
土地の者だけで取引をしていると、どうしても高値になってしまう。
   市場を開設されれば、他国の商人も入って来て絹紬などを買ってくれるし、
   その他の物資も入って来て、物価も自然に安くなり、土地の人達もありがたい。
   しかし(谷村、上野原)の両村の商人の勝手な申し立てで市場を開設できないでいる。
   是非、市場を開設させていただきたい。

上野原宿の申し立て

 
 1)猿橋市場再開はこれまでも郡中村々に差し障りがある旨申しあげている。
 2)猿橋宿が「市場を昔のように再開したい」と云っているが、昔市場があった確かな証拠も持っていない。
   たとえ昔市場があったとしても、その後中断していたので、「先規」は破滅しており、「新規の再開」に間違いない。
 3)市場がないと土地の物価が高くなりやすいという理論はその通りであるが、上野原市場の規模はそれほど大きくなく、猿橋市場が出来ると、自然と上野原市場が衰退する。
   上野原近隣の村々も難儀する。
 4)猿橋から市場まで6,7里と云っているが、上野原へは5里、谷村へは3里で、いずれも日帰りが出来る距離である。
   上野原宿には国を越えて吉野宿、与瀬宿の者も来ており、上野原宿がなくなれば猿橋まで遠路となり大変難儀する。
   猿橋宿近隣が難儀する、といってもこれまでづっと続けて来たのであり、急に難儀となったのではない。

 以上の理由で反対する。 猿橋宿が強いて市場開設しようとするならば、どこにでも出向いて訴訟も辞さない。

 このような経緯があり、代官所も市場開設を許可しなかっが、猿橋宿はねばり強く開設を願い続けた。 
 他の文書内に寛政4年にも同じ歎願が出されている事がうかがえるが、その文書は残っていない。


寛政5年の動き
 あきらめられない猿橋宿は寛政6年も市場再開の運動を続ける。 
 以前と同じように歎願書を提出するが、代官所からあきらめるよう指示があったのであろ。6月22日に願取り下げの一札を提出している。

・6月22日、願の取下げの一札
 
  昨年、江川太郎左衛門代官所に提出した嘆願書に対し、これまでと同様、許可しないという仰せ渡しがあった。
   色々な経緯もあるが、今回はお上の御沙汰を承知し、願を取り下げる。

 奥書として、上野原宿、谷村宿も承知した、という書付を提出している。

 しかし、これで一件落着とは行かなかった。猿橋宿は江戸へ訴えるという挙に出た。

・道中奉行へ駕籠訴
  
 納得がいかない猿橋宿は、同年7月17日に江戸へ出て、道中奉行(市史では老中松平越中守となっている)へ駕籠訴をしている。
 駕籠訴の訴文は残っていないが、これまでと同じ主張を繰り返し、代官所が取り合ってくれないと訴えたのあろう。
 駕籠訴というのは、幕府の要人が通行するのを待受け、駕籠の前に飛び出して「恐れながら・・・」と割竹に差した訴状を差し出す行為である。
 当人は厳罰に処せられる不法な行為である。
 どのような処罰がなされたか不明であるが、同中奉行からは「この願いは、その掛り、則ち代官所へ幾度も願い出ろ」との回答だった。
 そこで、猿橋宿および近隣26ヶ村は、再び代官所へ歎願書を提出している。
 これは非常に長文であるが、骨子はこれまでと同じであるが、ただひとつ、「市場」開設はあきらめ、次善の策として「売買所人立て」という、市場より一段低い取引所を歎願している。
 これは「売買人が立入って商売できる場所」として認めてもらい、名より実利をとった作戦と云えよう。これには上野原宿、谷村宿も了承したものと考えられる。 

・7月の歎願書
一 郡内領111ヶ村は往古18000石だったが、秋元但馬守の治世下、何回か改めがあり、今は20800石になっており、
  その他に小物成、浮役臨時物運上(桑束、漆束、干草、藁、渋柿、炭、太布など)、御運上物(絹紬、茶、鮎、桶・・など)を毎年9月15日から年末までにきちんと上納している。
一 秋元氏の時代には猿橋宿に市場があり、伊豆・駿河・相州・甲府などより多くの商人が来て、穀物等の取引があり、そのお蔭で、諸物価も安くなりありがたかった。
一 その後、猿橋宿の火災で市場が焼け、再開しないまま現在に至っている。
一 市場があるのは谷村と上野原(六才市)だけであり、これらは上記村々から遠く、大変難渋している。
  猿橋宿に市場を再置くよう谷村代官所に歎願したところ、郡内11ヶ村の意向を聞いたところ、谷村、上野原両村以外の109ヶ村は差し障りないと回答した。
  谷村、上野原両村とは色々話し合ったが、承諾が得られず、代官所からは「今回は認可できない」という回答だった。
  猿橋宿他はこれに納得せず、柳生主膳正(勘定奉行)へ訴えたところ、上野原、谷村両宿関係者を呼出し、「差し障りあり」の回答であり、両宿と私談(内談)せよとの仰せ、
  早速、上野原宿と相談、猿橋宿開設に賛成してくれれば、上野原宿がお上に納めている運上金を肩代わりしても良いという条件を提示したが、それも断られた。
  
  村に帰って、村々宿々と相談したが、「市場」ではなく、「売買所人立て」を許可願いたい。
  これは往古のように、商人が入込む売買所にして、日限は近村の商人・百姓と相談する。
  そうすれば自然と他国にも知られ、穀物なども送るようになり、品数も多くなり、物価も下がる。
  当地で生産する絹紬も諸国の商人が入って来て、適正な値段で売れるようになる。 
  なにとぞ猿橋宿にて「売買所人立」を認めて欲しい。

  連名の村々は次の通りである。
   小沢村、上島沢村、戸野上(殿上)村、奈良子村、奥山村、強瀬村、井倉村、朝日小沢村、
   下鳥沢村、下和田村、瀬戸村、畑倉村、駒橋宿、藤崎村、袴着村、駒宮村、葛野村、宮谷村、
   岩殿村、大月宿、小篠村、官谷村、林村、浅川村、浅利村、田野倉村る。
  将来ライバルとなる大月宿もこれに加わっている。

 この歎願が許可されたかどうかを示す文書は残されていない。
 しかし、その後、猿橋が近隣の経済の中心地となり、明治には郡役所や警察署などの官公署が猿橋に設置された事を考えると、この歎願は許可され、何らかの取引が猿橋で出来るようになったのだろう。

 猿橋宿近辺の村々が必死に歎願したのにも拘わらず、正式な市場再興は許されなかった。
 この悲願が実現したのは明治7年(1874)であった。寛政5年(1792)の歎願から実に80年を要した事になる。

 明治になって許可された猿橋市場がどこに開設されたかは不明であるが、以前甲斐絹同業組合があり、後に猿橋町役場となった場所ではないかと推察される。

 寛政年間の猿橋市場開設歎願書  大月市史資料編179