猿橋本陣所在地検証(1) 甲州道中分間延絵図
猿橋宿本陣の所在地について「甲州道中分間延絵図」は、宿場の中心、甲州街道がほぼ直角に曲がるあたりにあって、諏訪神社へ入る道から2軒目あたりに表示している。
甲州道中分間延絵図 猿橋主要部
今回、藤本紘氏所蔵の「大原村猿橋大字大猿橋公図」原図を見せていただき、本陣所在地特定のための検証を加えた。
この検証は下記2点を前提としている。
1)本陣、脇本陣は他の旅籠に比べて大きな敷地を必要とする。
2)この絵図は明治8年当時作成とされるが、明治初年に宿駅制度が廃止になってからの大きな変化がないこと。
藤本紘所蔵の明治8年の公図(一部)
上図では肝心の部分の字が読みにくくなっているが、原本では何とか読めるので、該当部分に番地、境界線を加えると、次のようになる。
斜めにいれた点線は後に中央線が通った所である。
この中央線敷設のために83番地(消防会館など),113(藤田理容、栄楽屋、岩井屋),114(高橋商店),121(日之出屋)番地は南北に分断されてしまっている。
この地図で本陣の敷地に相応しい規模を持つのは113番地と110番地である。
110番地(畑)は現在のナーシングホーム猿橋の所在地である。
野道、私道はあっただろうが公道には接していない。 大名などが宿泊する本陣が公道に面していない筈がない。
やはり本陣は甲州街道に面している現在の113番地、すなわち藤田理容店、栄楽屋、岩井屋の場所にあったものと思われる。
あらためて大月郷土資料館の猿橋宿の模型を見てみよう。
街道がほぼ直角に曲がった左2軒目に大きな建物が見える。これが本陣であろう。
その向かいに問屋場が見える。 問屋場の建物の特徴として、大きな庇が街道に突きだしており、ここで馬の乗換え、人足の交代などが行われる。
問屋場の前を五ヶ堰が流れている。
脇本陣(中宿)も街道から少し入ったところに再現している。
誰が、どの史料をもとに作ったのか知らないが、よく見てみると本当に精巧につくられた模型である。
猿橋宿本陣の形状や間取りなどを示す資料は見当たらないが、現存する花咲宿本陣、星野家住宅の写真である程度想像出来る。
脇本陣
二軒あった脇本陣のひとつは中宿(現在の花田クリーニング店)と比定されているが、もうひとつの脇本陣はどこにあったか?
甲州道中分間絵図では本陣の西、五六軒目に脇本陣があったと示している。
本陣所在地特定と同じように、藤本紘氏所蔵の絵図で、柏屋辺から仁科薬局あたりまで土地の形状をしらべてみると、129番地のみが他に比べて大きく、脇本陣にふさわしい面積となっている。
この129番地は、その後に分筆、合筆などの変遷があるが、昭和30年代の町並で云えば、大藤屋、山梨硝子店、仁科自転車店、田中屋呉服店、仁科薬局などが含まれる土地である。
この土地すべてか、一部だったか不明だが、ここに脇本陣があったものと思われる。
なお、現在の公図を見ると、その後の鉄道敷設、大火などで分筆、合筆、あるいは交換などが行われ、明治初期のものとかなり異同が見られる。
129番(脇本陣)はそれほど変っていないが、本陣があった113番は、鉄道敷設後は表通りに面するところだけになっており、東、南、西を83番地に囲まれた状態になっている。