猿橋本陣所在地検証(2)
猿橋の本陣は旧猿橋病院のあたりにあったという説を検証してみる。
この説を後押しするのは次の2点の絵地図である。
A 明治期の町並図 甲州街道に面しておらず、しかも脇本陣の裏側に本陣というめずらしい配置である、 (水越孝之氏所蔵) |
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B 大正初期の横町絵図(水越孝之氏所蔵) 旧猿橋病院敷地と道路を隔てたところに本陣がある。 (大通り下左から3軒目に一杉建具店がある。) |
この本陣、脇本陣がどこにあったかを検証した。
脇本陣は検証(1)で結論づけた猿橋113番で間違いあるまい。
何故、本陣だったところが脇本陣になったかの推定は後で述べる。
本陣の位置
Aの絵図は明治初から40年頃の絵図で、特に何年現在という絵図ではない。おそらく作者が思い出すまま記入したものであろう。勿論、明治40年には本陣は存在していない。
この図では、本陣は甲州街道から神社(諏訪神社とも明神宮とも)へ向かう道(今の市役所支所に向かう道)とは別に右へ、ほぼ旧中央線のあたり本陣への道が描かれている。
本陣には「奈良加蔵」、「戸長」とある。戸長は明治初期の村長である。
Bの絵図は、同じく水嶋義雄氏の作による「大正初期(7年頃)の猿橋 横町」絵図である。
この「本陣」の表示は、勿論大正時代に本陣があったわけではなく、「本陣だった建物」あるいは「ここに本陣があったと伝えられている」という意味だろう。
この場所はどこであろうか?
猿橋病院があった場所ではない。病院とは道を隔てた敷地にある。
猿橋本陣所在地検証(1)で検証に使用した明治初期の公図を見る。
明治初期の公図 (藤本紘氏所蔵の「大原村猿橋大字大猿橋公図」) |
この本陣は、検証(2)で本陣所在地と特定した場所と同じ113番にあった。
上の図でわかるように、113番の土地は、明治になって中央線敷設により分断された土地で、甲州街道に面する方に本陣が建っていた。
この本陣が、何らかの理由で脇本陣となり、かわりに同じ土地の奧の方に新しい本陣が建てられた。
甲州街道からのアクセスは83番の土地の一部が使われた。この時、その代わりに土地交換、分筆があり、113と114の間にも83番地が出来rtr移っている。
中央線がここをと通っていた当時、踏切をわたると右側に水嶋さんの御宅があり、その前を猿橋病院正面に通じる道があった。
その右側、一段高くなっていたが、たしか安戸さんという鉄工所などがあった。このあたりが本陣跡だと考えられる。
一段高くなっていたのは甲州街道と高さを合わせていたためだ。
旧猿橋病院(現在のナーシングホーム猿橋)は110番地である。従って「本陣は猿橋病院のところにあった」のではない。
あらためて大月郷土資料館の猿橋宿の模型を見てみよう。検証(1)で本陣と特定した建物の斜め後に大きな建物が見える。
これが「新本陣」か?
このジオラマ模型を製作した時、どの資料を参考にしたのだろうか。
明治4年から5年にかけて、各街道の宿駅が廃止され、代りの運送制度として、その地域の輸送特権を付与された陸運会社が相次いで設立された。
上記A(明治町並図)に「荷物問屋」が見えるが、これはその新制度の陸運業者だろう。
昭和時代まで郵便局があった場所に「中問屋」幡野昌之と見えるのも、同じような業種か?