江戸時代の猿橋宿

 
家康が江戸に幕府を開くと甲府が軍事上大きな意味を持ってくる。
 一朝事あれば、徳川家が拠り所とする重要拠点として、甲斐国は常に信頼の厚い譜代の領国とするか、天領として直接支配して来た。
 通行量はそれほど大きくない甲州道中(甲州街道)を5街道のひとつとして整備し、八王子には千人同心を配置したのもそのためである。
 甲州道中は日本橋から中山道の下諏訪宿までの間に45宿が設けられた。猿橋宿は日本橋から24番目の宿として整備され、宿場町として発展した。

 

 甲州道中の宿場は幕府公用便の継飛脚のために人馬(人足25人、馬25匹)を確保しておく必要があったが、小さな宿場ではその負担が大きいため、隣り合う二つの宿が日割りで分担してひとつの宿の役割を果たすことが多かった。

 
上鳥沢と下鳥沢、下花咲と上花咲などの「合宿」がその例である。猿橋宿は246石余の比較的小さい宿であるが、単独でこれらの人馬を揃えていた。

       
天保14年の周辺各宿場

 宿場 石高(石斗升合)  家数  人口 本陣 脇本陣 他の宿
下鳥沢 235.2.2.7 144 699  1  1   11
上鳥沢 184.5.7.0 151 650  1  2   13
猿橋 246.1.1.5 138 542  1  2   10
駒橋 328.1.7.8  85 267  0  0    4
大月 226.6.5.2  92 373  1  2    2

 宿内の耕地は田より畑が多く、農業の他に旅籠屋や茶店、その他宿場関連の諸商売に従事していたが、一般には農間に男が往還稼ぎや山稼ぎ、女は養蚕を営んで繭から糸を取り、太織、絹、紬の類を織り出していた。

猿橋宿の家並
 下図は森嶋家所蔵文書で現在は都留市に保管されている猿橋宿の絵図である。文化3年(1806年)とあるので今から200年ほど前のものである。「甲州道中分間延絵図」では更に宿内の様子を詳しく知ることが出来る。

 鳥沢方面からの甲州街道は猿橋の手前で下和田・葛野方面への下和田道と分岐する。
 甲州街道は折り返すような形の坂道を下り猿橋を渡る。橋を渡ったところで鍵手に曲がって直進する。今の横町だ。
 
 橋のたもとにお上(この時代は谷村代官役所)からの布告などを伝える高札場がある。
 しばらくすると鍵手に右折する。現在の国道20号の交差点のところであるが、このあたりが宿場の中心であった。
 右角から2軒目に公文書や荷物などの中継をする問屋場があった。郵便局と駅の機能を併せたような役目を持ち、各宿場に備えられていた。ここには問屋、年寄、馬差が一人づつ詰めていた。
 その向かい、丁度曲がり角のところの奥(今の支所のあたりか?)に明神社(史料によっては諏訪の社)があり、この入り口付近に本陣があった。建坪80坪と伝えられている。現在の藤田理髪店、榮楽屋のあたりになるのだろうか。
 そこから数軒先に建坪75坪の脇本陣があった。
 その向かい側、少し奥まった所に78坪の脇本陣がもう1軒あった。中宿と呼ばれた。現在の花田クリーニング店の場所であろう。
 これら宿場の主要施設がすべて現在の仲町にあった。
 
 猿橋宿は長さ11町34間で、本陣、脇本陣の他に大2軒、中5軒、小3軒、あわせて10軒の旅籠屋があったと記されていたが、街道筋に家並が見られるのは活版所があった辺までであった。

 猿橋の町には現在も「五ケ堰」と呼ばれる用水が流れているが、これは遠く十日市場(都留市)で桂川から取水し、更に井倉で菅野川・朝日川からの水が合流した生活用水である。
 殿上方面から流れて来た用水は一度小柳町と寿町の境で家並みの裏側に迂回し、その後、寿町と仲町の境で再び街道に出て猿橋の近くで桂川に落ちているが、江戸時代に既にその形になっていたことが下の絵図でもわかる。
 絵図によれば、この用水は橋際の高札場の近くで桂川に落ちている。これが「思い出の滝」だ。

 宿尻(西)からは南に里道が出ており、これがすぐに分岐し、一方は小沢川を渡って藤崎道となり、もう一方は枝郷の小倉、幡野などに通じている。.
 猿橋宿には畑倉、奥山、藤崎の3ケ村が助郷として出役した。 合計石高約718石。
    
森嶋家所蔵文書の猿橋宿(都留市保管)
猿橋宿の模型(大月市郷土資料館)
甲州道中分間延絵図(第4巻)猿橋宿


上図の拡大図

■猿橋宿の位置

 猿橋宿は江戸日本橋から約23里10町、甲府から約12里の位置にある。この当時の旅人は一日あたり10里歩くことを目安にしていた。
 宝永3年(1706年)9月、荻生徂徠が江戸から甲府に往復し、「峡中紀行」を残しているが、これによると徂徠は江戸を出て途中府中で休み、その夜は横山宿(八王子)に泊まっている。
 第2日は小仏峠を越えて甲斐に入り、猿橋宿に泊まっている。
 第3日には猿橋を出て笹子峠の難関を越えて甲府に到着、2泊3日の旅で1日10里以上を歩いている。大名の旅行となるともう少しゆっくりした日程になる。
 安政5年(1858)、内藤駿河守が中仙道から甲州道中経由で江戸に向かった時の日程では、猿橋宿に泊まったった時の日程では、猿橋宿に泊まった前夜は石和宿、次の晩は与瀬(今の相模湖町)泊まりである。一日あたりの距離は10里に満たない。 おそらく駕籠に乗っての旅であったろう。
 因みに猿橋宿から隣の宿までの人馬賃銭は天保10年当時、下表のような金額であった。(単位 文)

荷物馬一疋 軽尻馬一疋 人足賃
鳥沢へ   61   41  29
駒橋へ   38   25  19

寛文9年(1669)村高内訳表(大月市史)




■百姓一揆   
 天保7年(1836)の大飢饉の折、近在の下和田村から、幕府にも大きな衝撃を与えた百姓一揆が発生したが、8月21日、猿橋宿名主問屋兼帯の六郎兵衛他が、この騒動に加わらない旨の誓約連判状に東五郎以下132名の署名捺印を添えて提出している。  古文書「一揆に不参加の誓約書」参照
 上表で猿橋宿の家数138とあるが、その大多数の132名が連判している訳である。
 実際にはこのうちの嘉助など数名は一揆に参加しており、後に手鎖処分となっている。

助郷
 
宿場は、幕府公用の役人の通行に際しては、宿を提供し、役人とその荷物を次の宿場(駒橋あるいは鳥沢宿)まで送り届ける馬と人足を提供する義務がある。
 常に備えておく馬数、人足数が決められているが、通行量が多くなると、この数では不足する。
 このような場合、助郷と決められた近隣の村々は馬と人足を差し出す必要がある。
 宿場と助郷の村々は、下記のようにあらかじめ道中奉行によって定められている。
 猿橋宿の助郷は時代によって変遷もあるが、江戸中期には奧山、藤崎、畑倉の3村であった。
 甲州街道の通行量が更に多くなると、下記助郷以外に加助郷に決められた村々からも馬・人足が徴発される。
 農繁期などは全く考慮なしに役人が通行するから、この助郷、加助郷は農村にとって大きな負担であった。
  
 
 助郷は宿場近隣の村、が原則であるが、中には遠い宿場まで出なければならないケースもある。 小沢は猿橋でなく殿上の、朝日小沢はさらに遠い大月宿の、下和田は大月でなく花咲の助郷に指定されている。
 人足の交通費、食費、日当は村負担なので、どこの助郷に指定されるか、それは村々の幸・不幸となる。
 皇女和宮の降嫁行列には猿橋近辺の村々が中山道諏訪宿あたりまで助郷にかり出された。また戊辰戦争では官軍の甲州口鎮撫の大行軍があり、これにも多数の馬・人足が徴発された。これらの経費は通常の助郷の範囲を遥かに越えており、費用負担の論争は明治維新過ぎまで続いた。

一里塚
 幕府は江戸日本橋を起点として街道ごとに一里塚を築かせた。
 旅する人達の目安であり、馬や駕籠の賃銭の目安ともなった一里塚は、土を盛り、その上に榎や松を植えている。
 甲州街道にも終点下諏訪まで53里余に53の一里塚が築かれたが、猿橋宿近辺では次のような一里塚があった。
    日本橋から20里 恋塚(犬目)
         21里 上鳥沢
         22里 殿上
         23里 下花咲 

 殿上村にあった一里塚は阿弥陀寺入口付近にあったとされているが、今はその標識があるだけで、当時の形状は残されていない。
 当時の形状がよく残されていることで有名なのは恋塚(犬目宿)の一里塚である。

殿上 阿弥陀寺前の一里塚標識 恋塚(犬目宿)の一里塚  当時の形状がよく保存されている

■猿橋市場開設嘆願 (郡837、市史242)  猿橋市場開設の歎願書

 猿橋宿は耕作地が少なく、農村より宿村という性格が強かったようで、近在の村々からの産物の集散地としての機能も果たしていた。
 江戸初期、秋元氏が郡内領主であった頃には、猿橋に近郷の産物を取引する市場が設けられていた。しかし、その市場は火災に逢い、それ依頼再興されなかったため、近在の村々は出荷や材料買い付けのために遠い田村や上野原まで行く必要があり、大変難渋していた。
 このため、寛政年間に猿橋宿に市場を再開したいという歎願書が出されている。

 猿橋市場の開設が実現したのはなんと約80年後の明治7年(1874)のことであった。寛政年間の運動が市場開設許可の歴史的な布石となったのかも知れない。
 
幕末の猿橋騒動  解説 猿橋騒動へ

 文久2年からまる10年にわたって猿橋宿、小倉、幡野の枝郷、助郷をまきこんで猿橋宿伝馬問題をめぐる大争議があった。
 これは和宮降嫁の際、中山道を下向したにもかかわらず、甲州街道の各宿にも人馬提供の命令があった。
 この費用負担についての伝馬勤金差引割賦の問題が発端になり、猿橋架替費用、高札場改築費用、五ケ堰補修費用、幕末の官軍の非常御通行入用出金の分担など、多岐にわたる問題が争われている。
 底辺には寛文期(1660年代)から名主と問屋を兼帯してきた名家兵右衛門家に代表される猿橋宿の旧支配体制に対して年寄東五郎、同半左衛門、百姓代七郎左衛門らの不満があった。
 この騒動がようやく解決を見たのは明治4年(1871年)で、1312両という巨額を次のように分担して決着している。
    猿橋宿方  786両、 枝郷小倉組 344両、 枝郷幡野組 109両
 この費用分担を決めた連印帳には、名主、年寄など、当時の猿橋宿の中心となった人たちの名前が並んでおり、この中には奈良、幡野、花田、大野、千見(幡野)、小宮山(小倉)など、現在も旧家として知られる姓が見られる。
 なお、名家兵右衛門家は名主、問屋の両役とも退役となり、後にはこの大訴訟で家財を使い果たしてしまい、荷問屋の権利も譲り渡してしまった。