猿橋騒動の顛末 (市史652)
幕末、文久2年(1862)、後世「猿橋騒動」と呼ばれる猿橋宿場町内の内紛があった。
この紛争が解決したのは、維新を経て明治4年(1871)のことで、実に10年越の紛争となった。
紛争の概略は次の通りである。
文久2年(1862)1月17日、猿橋宿で毎年開かれているの「伝馬勤方式」の相談の席で、年寄東五郎、同半左衛門、百姓代七郎左衛門の三人と名主兵右衛門の間で激論がたたかわされた。
兵右衛門は200年前の寛文年間(1660年頃)から代々猿橋宿の名主を勤めている名門で、当時の兵右衛門は天保4年(1833)から約30年間も名主を務めている。
この旧支配体制に対して反旗を翻した3人が指摘したのは次のような不満であった。
・猿橋掛替えの費用、人足問題
・高札場改築問題
・川欠損地問題
・安政六年の大風雨損害
・年貢取立方不正問題
・コレラ流行時の夫食不正問題
・五ヶ堰費用割問題
などなど過去に遡って名主の施策を非難するものだった。
東五郎など3名は更に多くの者を集めて集団で谷村の代官所に訴え出た。
名主兵右衛門は、これらの訴状に対して一々答弁している。
しかし原告側は更に兵右衛門を追い詰める。
元治元年(1864)、水戸藩の尊攘派の過激分子(天狗党)が筑波山で挙兵し、徒党を組んで西上した。
甲州街道ではなく下野経由中山道を行軍したが、これを追跡する幕府軍の物資輸送のための伝馬御用が猿橋宿にあり、その費用を慣例に従い宿方に割り付けたが、訴訟の相手側をこの負担を拒否した。
思い詰めた兵右衛門は道中奉行への「駕籠訴」という非常手段に打って出る。
駕籠訴は幕閣の要人が駕籠で移動中に「恐れながら・・・」と訴え出る行為で、勿論不法である。
その訴え文の扣が残っている。
この結果がどうなったか不明である。
慶応4年(1868)、官軍の東上の際に命ぜられたにも多額の「非常御通行入用金」も原告側の協力を拒否し、兵右衛門は更に追い詰められる。
訴訟問題については その後も基本問題は何も解決せず、代官所も容易に結論を出せないまま明治維新を迎え、明治4年(1871)、内済(和解)によって解決した。
兵右衛門はこの大訴訟で家運も傾き、長い間勤めた名主、問屋という猿橋宿の中心的な役割から退くこととなった。
この訴訟にかかった原告側の費用も1310両余巨額となり、宿方に大きな負担となった。
結局この負担は
猿橋宿負担 786両余
枝郷小倉負担 344両余
枝郷幡野負担 209両余
ということで決着した。
1両が現代の価値でどのくらいかを論ずることは、基準を何にするかで大きく変わり、特に幕末は貨幣価値の変動が大きかった。
仮に1両10万円とすれば、訴訟費用が1億円を越える額となり、1両1万円としても1千万円を超える大金である。
猿橋騒動(発端)
猿橋騒動(決着)