昭和の猿橋(戦後)


猿橋町の戦後


 
猿橋は大月空襲のような戦争の直接破壊はなかったが、多くの男が出征し、「銃後を守る」妻子にとっては過酷の戦時中だった。
 この時代、大月と猿橋の格差が大きくなり、猿橋にあった地方官庁はほとんどが大月に移転し、猿橋にはわずかに登記所の支所が小柳町に存在していただけであった。


 戦後の猿橋の状況については更に調査が必要であるが、疎開に来た人達の長期滞在もあって人口は増えたまま、食料は乏しい困難な時代を迎えた。

 小学校は一年二学級だったが、3学級があたりまえになった。

大月市の成立

 昭和前期の項で述べたように、明治大正期には猿橋が北都留の中心市街として栄えていたが、中央線、富士山麓電鉄線の開通、都留中の誘致で、次第に大月に人とサービスが集中するようになっていた。
 第二次世界大戦前には大月優位の傾向がはっきりしていた。

 
 こんな状況の中で、政府の地方行政改革の後押しで、町村合併が盛んに行われるようになり、北都留にも「合併促進」の波が押寄せてきた。
 
 北都留郡西部の笹子、初狩村、大月町、賑岡村、七保村、猿橋町、富浜村、梁川村の2町6村の大合併構想が持ち上がった。
 (合併の直前に七保も町制をしいたので3町5村となる。)
 しかし、猿橋、七保、富浜などには反対の意見が多かった。
 猿橋の商店街は「市制反対期成同盟」を結成して大反対運動を展開し、町内はだいぶ混乱した。
 当時小学校低学年だった私は、その反対運動を見て、子供心に単純に市になると格がが上がるような気がしたが、「大月市」となることには反感もあった。
 そして市役所は大月と猿橋の中間に置くべき、市名は各町村平等の「都留市」がいいとと思っていたものである。

 下はその市制反対運動の模様をつたえる大月市史の記事

市制反対のステッカー 昭和28年10月、「町村合併促進法」が施行され、北都留郡西部8ヶ町村の合併による大月市制が議論の対象となった。

 県の指導により、各町村の議会で合併の議決が成されたが、七保町と富浜村は合併反対の意思表明をした(5月5日)。
 
 七保、富浜に挟まれ、かっては北都留郡のセンターであった猿橋町でも、商店街を中心に「市制反対期成同盟」が結成された。町の市制賛成の議決は町民意思の無視だとする批判の声が高まる中で、反対署名も人口の3分の1にあたる2000名を越え、対立も次第にけわしくなった。

 6月5日には坂本町長が辞意を表明し、7月14日には町議会開会直前に役場内で傷害事件が発生した。これにからんで町議会議長が辞表を提出、また消防団幹部17名が市制反対を理由に消防団ハッピを役場に返上するなど、市制問題に暗い影を投げかけた。

 この猿橋市制反対期成同盟と富浜村市制反対期成同盟が連名で「敬愛する七保町の皆さんへ」という文書を出している。
 これは
    @地勢的なつながりがない。
    A大月の人々だけが利得する 
    B現在の生活改善が急務
の3点を指摘し、県が出した市制推進の文書に逐一反対している。

 しかし猿橋町議会で一度議決された合併賛成はくつがえる事なく、七保町も結局は合併方向となり、
昭和29年8月8日、富浜村を除く7町村の合併が実現、猿橋町は大月市に包含された。
 ほどなく富浜村も自治省の勧告、県からの圧力で大月市への編入を決議し、大月市もこれを認めて、9月に富浜村を含めた8町村による大月市が成立した。

 市名については
  A案 北都留郡から「都留市」
  B案 桂川沿線の都市という事で「桂市」
 などもあがったが、一足先に谷村が市制を施行、「都留市」となったのでA案が消え、笹子、初狩、七保など桂川に直接面していない、などの理由でB)案も消え結局、市の中心都市の市名をとって「大月市」におちついた。

 当時の人口構成は
   大月町 約1万1千人、七保町 約7千人、猿橋町 約6千人
 という状況であり、大月が新市の中心となる事には「むべなるかな」であった。

 この「都留市」「大月市」の成立により伝統ある都留高校の所在地が「都留市」ではなく「大月市」という変な状況となった。
 都留高校は大月高校に名称を変える動きはなかったのだろうか?

昭和30年頃の猿橋
 大月市となった昭和29年、30年頃の猿橋の町並を絵図にして見た。
 とりあえず、仲町・横町のみである。
 東町・霞町、寿町、小柳町の絵図も作成中であるが、記憶が定かでない場所が多く、関係者のチェックを受けた上で公開する。

令和の猿橋

 国道20号(甲州街道)は、町の名前のもととなった名橋猿橋を通らず、桂川を斜めに渡り、その昔、明神社があったあたりでもとの道と合流している。
 
 
このため、新猿橋近辺は交通量も少なくなり、名橋猿橋はひっそりと昔のままの形で桂川を見下ろしている。
 
 
木造橋であるから何10年かごとに架け替えが必要となるが、何回架け替えても再び同じ構造のものを再建してきたということは稀有のことで、何百年もの間、地元の人達がこの猿橋を愛し、大切に守ってきたためである。

 猿橋の町もすっかり寂れてしまった。 商店があったところに近代的な住宅に建て直されており、「すずらん灯」がならんでいた商店街は住宅街の様相に変わっている。

 大月市の人口は
           昭和30年    昭和50年   平成元年    平成20年   令和4年
           41(千人)     37     35       30      22
と減少し、現在は市成立時の約半分(54%)になっているが、猿橋町の人口は約6千人から現在約4800人(80%)と減少率が低い。
 下の
地図のように伊良原などに住宅地が拡散し、桂台、四季丘などに大きな住宅地が造成されたためである。 

 明治の頃、大月(広里村)と猿橋(大原村)はほぼ同規模の村であったが、昭和初期には大月に大きく遅れをとった。

 町村合併により大月市となり、大月が中心地となると更にリードしていたが、近年になって大月も全国の地方都市の衰退と同様に「シャッター街」となり、人口も急減した。
 今、また大月と猿橋は同じような人口規模となって来た。  低いレベルの争いではあるが。



 下の地図のように伊良原などに住宅地が拡散し、桂台、四季丘などに大きな住宅地が造成されたためである。  

現在の猿橋の町  国道が「新猿橋」を渡らず直進、あずくめ、梨木、伊良原などに宅地が拡散、町並もすっかり変わってしまった。
桂台、四季の丘にも大規模住宅地が出来た    
  

注目点
・猿橋町全人口のうち、桂台が1/3を占め最大

・伊良原を含めない場合の猿橋地区より藤崎地区の方が人口が多いという状況になっている。
 これは」四季の丘効果」といえよう。

・人口構成
   桂台   33%
   藤崎   19%
   猿橋   19%
   伊良原  13%