天保飢饉
江戸時代後期、天保年間に大飢饉があった。 享保飢饉、天明飢饉とともに江戸三大飢饉と呼ばれる。
天保4年(1833)から8年(1837)にかけて、大雨による洪水、日照不足、冷害などが重なり、東日本の広い範囲で米を初めとする農作物が不作となり、大飢饉となった。
(中米ニカラグアの火山噴火による日傘効果が原因という説がある。)
被害は陸奥・出羽の東北地方で甚大となったが、甲斐国でも低温、旱魃による被害が広がり、郡内地方も1万人を越える餓死、病死舎が出ている。
凶年記
郡内地方の飢饉の様子を記した凶年記には、
・郡内地方は山がちの地でもともと穀物の生産が人口に比べて少ないところ、天候不順により不作が続き、木の実、草の根などを食べて凌いでいる。
・郡中の人口はおよそ6万7千人余であるが、餓死人数は数知れず、餓渇の疫病も流行、死者は1万7千人余、所々に捨子数知れず、
・谷村町に赤子が捨てられており、犬に食われた頭と手足が町中に散らばっている
・行き倒れの数しれず、古き乞食は残らず行き倒れ、
・この頃は百姓が田畑、家財を売払って新しく乞食になり、よんどころなく親を捨て、子を捨て、妻を捨て何国ともなく落ち行くものが多い。
・道志川という川があるが、村人が橋の上に親子連れと思われる五人が泣きかなしんでいるのを見た。不愍に思ったけれど、
自分も餓渇で苦しんでいるので、一言のなさけもかけず通り過ぎた。少し行ってから振り返ると、すでに男一人が川に飛び込んでいた。
・猿橋宿の百姓両助というもので、両助は死に、妻子三人は猿橋へ立帰り、自分の家にて一同餓死した。
組合のものがこれを見つけ、親子三人を一緒に葬った。
と、その惨状を記している。
一揆
猿橋村は一揆に参加しない誓約書