小猿橋
猿橋ではなく猿橋に似た構造の橋がふたつある。
吉野の小猿橋
今はなくなっているが、往時「小猿橋」という橋があった。
吉野宿の西で桂川(相模川)にそそぐ沢井川を越えるために、甲州街道は大きく上流側に迂回するか、川原まで下りて行って渡河せざるを得なかった。
下記旧藤野町教育委員会の案内板に寄れば、甲州街道は現在の吉野橋より上流に迂回し、現在の中央高速下あたりに橋をかけて上野原方面に向かった。
この橋が「小猿橋」と呼ばれた橋だったという。
猿猿とはまったく関係なく、猿橋と同じ刎木橋構造のため「小猿橋」と呼ばれた。
その後、架橋技術が進歩するに従い、長い橋が架けられ卯ようになり、大正年間になって現在の吉野橋がかけられたという。
画像が鮮明でないが、確かに猿橋の構造に似ている。
甲州街道歴史資料集より
旧藤野町教育委員会の案内板 | |
小猿橋 小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南よりにあり、長さ14間(25m)、 幅2間(3.6m)、高さ5丈8尺(25m)の欄干付の板橋でした。 この橋は、山梨県大月市の猿橋と工法も形も同じです。 その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼んだと云われています。 元禄11年(1698)の記録によれば、橋の周辺の地形・地質が悪く、迂回路の場所がないため、架替工事が非常に困難であった。 その工事費は江戸幕府の支出で行われ、額は400両だった。 その後、次第に工事費は減り、文久2年(1862)には70両となり、徐々に幕府の支出はなくなっていった。 地元では人馬通行橋銭の徴収、宿場の貸座敷や旅籠の飯売下女からの割銭等を財源として架替工事を行っていた。 その折、八王子千を組長とする一隊が工事中の警備・木材搬出の指揮に当たったという、 明治初年からは総べて官費で行われるようになり、明治中頃には上流約 500mの地点に、新猿橋という木橋が出来た。 大正8年、道路法制定と共に国道8号線となり、昭和8年8月の吉野橋の完成に伴い、「小猿橋」「新猿橋」は消滅した。 昭和62年3月 藤野町教育委員会 |
檜原村の橘橋
橋の名は猿橋ではないが、猿橋と良く似た構造の橋
新編武蔵国風土記稿に紹介されている。
橋桁はなく、両岸からは刎木を尽きだして橋を支えているのは猿橋と同じである。
橘橋 口留番所の前にて秋川に架せる長さ12間、巾は8尺余、左右に欄あり、橋の制作、杭を用いずして、両岸より桁を畳じて作れり、このゆえは橋下より水上まで10間余あり、故に杭を用ゆるによしなし。 両岸は一円に岩石にて、絶壁6,7丈許なり。 橋のたもとも手すりありて往来に便す。口留木戸の西に2間に4間の升形有、それより橋を距ること10間許。 北の傍に覆屋あり、岩船地蔵と号す。 |
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新編武蔵国風土記稿より |
この橋はその後何回かの架け替えを経て、平成19年に右下のような近代的な橋に生まれ変わっている。