猿橋の歴史

 猿橋がいつ架けられたのかは正確には分かっていない。猿橋の脇にある宝暦5年(1755)の石碑によれば、古代・推古天皇610年頃(奈良時代という説もある)、百済からの渡来人で、造園師である志羅呼(しらこ)が、猿が互いに体を支えあって橋を作っている事からヒントを得て架橋したと云う伝説がある。 「猿橋」の名は、この伝説に由来する

 文化12年(1815)に編集された『甲斐国志』に
  「大嵐村蓮華寺佛像ノ銘ニ嘉禄二年九月佛所加賀守猿橋ノ住民也トアレハ猿橋ト地ニ名ツケシモ已ニ久シキ事」
との記述がある。
 文中の「嘉禄2(1226)年」は鎌倉時代であり、この時代には猿橋という地名がすでに存在していたことが分かる。

 
中世

 猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点のやや下流にに位置し、一帯は甲斐国と武蔵国・相模国の交通の要衝である。
 江戸時代には橋の名をとった猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された

 
 「鎌倉大草紙」によれば、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという
 文明19
年(1487)には聖護院道興「廻国雑記」において、道興が小仏峠を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ和歌・漢詩を記録しているしかし橋の形式までは分からない。

  戦国時代、甲斐国富士山北麓地方の年代記である妙法寺記に
   ー永正17年庚辰(1520)  この年、当郡猿橋、三月中に小山田殿引立てかけ給ふ也

とあり、
都留郡の国衆・小山田信有(越中守)が猿橋の架替を行っている事がわかる。 
 この信有による架替は、小山田氏の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価されている

 さらに妙法寺記には
   ー天文2年 猿橋焼け申し候
とあり、天文2
年(1533)に猿橋が焼けた事が記されている。 再架橋されたのは天文9年(1540)だった。

 「勝山記」によれば、大永4年(1542)2月11日に、甲斐守護・武田信虎は同盟国である山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(相模原市)へ出兵し、相模の北条氏綱と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったという
 戦国期に小山田氏は武田氏に従属し、「勝山記」によれば享禄3
年(1530)正月7日に、越中守信有は猿橋で氏綱と対峙している
 さらに「勝山記」によれば、留守中の3
月には小山田氏の本拠である中津森館(都留市中津森)が焼失し、4月23日に越中守信有は矢坪坂(上野原市大野)の戦いで氏綱に敗退している

 この頃は現在のような「刎ね橋」構造ではなく、現在の新猿橋より少し上流の、もっと川面に近いところで、両岸の岩の上にさし渡した橋であったと考えられる。より少し上流の、下の写真のようなところに架けられていたと考えられる。
 両岸の岩場から渓谷の上に通じる細い道があるので、これが古い甲州街道だろう。

   















古くは、このあたりに橋が架かっていた。










     

近世

 延宝4年(1676)以降に橋の架け替えの記録が残り、宝暦6年(1756)からは類似した形式の刎橋となっている。

 この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。
 宝永3(1706)には荻生徂徠が『峡中紀行』で、
   ー橋の下には柱がなく、両岸から巨木を1尺(約30cm)ずつ迫り出すように重ねて橋を架けている
と記述している。 このころには現在と同じ桔橋形式であったことが窺える。

 『峡中日記』以降、明和5年(1768)に池川春水の『富士登山記』、前出の『甲斐国志』など多数の文献において桔橋の構造の説明が示されている。
 なお、『富士登山記』では
  ー昔は葛橋にてありけん、今ははね橋なり」
という記述がある。桔橋以前は葛橋、おそらく蔓を用いた吊橋のような構造であったことが示唆されているが、根拠があっての記述なのか筆者の推論なのかは分からない。

 
 甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14
年(1817)には浮世絵師の葛飾北斎が「北斎漫画 七編 甲斐の猿橋」において猿橋を描いている。

 江戸後期の天保12年(1841)には、浮世絵師の歌川広重が甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
 広重は甲州街道を経由して甲府を訪れ、後に旅の記録を「甲州日記」としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。
 小島烏水によれば、現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13
年(1842)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。

 宝永3(1706)には荻生徂徠が『峡中紀行』で、
   ー橋の下には柱がなく、両岸から巨木を1尺(約30cm)ずつ迫り出すように重ねて橋を架けている
と記述している。 このころには現在と同じ桔橋形式であったことが窺える。

 『峡中日記』以降、明和5年(1768)に池川春水の『富士登山記』、前出の『甲斐国志』など多数の文献において桔橋の構造の説明が示されている。
 なお、『富士登山記』では
  ー昔は葛橋にてありけん、今ははね橋なり」
という記述がある。桔橋以前は葛橋、おそらく蔓を用いた吊橋のような構造であったことが示唆されているが、根拠があっての記述なのか筆者の推論なのかは分からない。

 文化14年(1817)には浮世絵師の葛飾北斎が「北斎漫画 七編 甲斐の猿橋」において猿橋を描いている。

 このように猿橋は、上記以外にも歌川広重の『甲陽猿橋之図』、十返舎一九の『諸国道中金之草鞋』などの絵画や文学作品にも多く登場する。
 この地は昔から人の往来が盛んで、江戸時代には甲州街道として五街道の一つに挙げられ、幕府によって整備された主要街道である。その道中に存在する急峻で美しい渓谷と、その特異な構造と興味深い伝説をもつこの橋はやはり見るものの心を奪い、多くの文献や絵画に残されてきたのであろう。これらの文献や絵画については別項で紹介する。       

近現代の猿橋

 明治期には富岡鉄斎が明治8年(1875)明治23年(1890)に山梨県を訪れている。 鉄斎は甲府の商家・大木家などに滞在しており、大木家資料(大木コレクション)には「甲斐猿橋図」が残されている。
 
 明治13年(1880)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年618日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。

 昭和7年(19323月に国の名勝に指定された
 名勝に指定された当時、橋の所在地であった大原村が、管理に手がかかるため所有を拒否したため、猿橋はどこにも管理されていない無所属の状態であり、修理に必要な国の補助金が受けられない状況が続いた

 この問題は、昭和38年(1963)
になって大月市の所有に決定し現在に至っている。

 昭和9年(1934)
上流に新猿橋が造られ、国道(当時は国道8号、現在は山梨県道505号)はそちらを通るようになった。
 それまでは、この木造の橋を馬も自動車も通行していたのである。

   

  
 
 現在の猿橋は人道橋なので幅巾がだいぶ狭くなっている。
 

 この頃は、上流から「新猿橋」「猿橋」「水道橋」「鉄道橋」の4橋が平行してかかっていた。

 この四種類の橋を同時に見る事が出来ると売り出した「橋のオンパレード」というパンフレットが残っている。
 新猿橋架橋工事中の昭和8年のことである。

 

 明治
35年(1902)に開通した中央線の鉄橋は猿橋の脇を通っていたため、列車内から猿橋を眺める事が出来た。
 しかし、昭和43年(1968)、中央線複線化の際、鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋トンネルを通過して猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、車窓から橋を眺めることはできなくなった。


 昭和48年(1973)
には別の新々猿橋が下流に造られ、国道20号が通るようになった。これにより、国道で通過する車の中から猿橋を見る事が出来なくなった。

 現在の猿橋は昭和59年(1984)に架け替えられた人道橋で、嘉永4年(1851)の橋を復元したものである。H
鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋となり、耐久性を増しているが、鉄道からも、国道からも見る事ができない状況の中で、ひっそりと昔を伝えている。


架け替え時の迂回路