猿橋の浮世絵

 猿橋を描いた浮世絵はネットなどに多数公開されているが、色を変えたり、部分的に切取ったものが多い。

 最も有名なのは歌川広重の「甲陽猿橋之図」である。

  甲陽猿橋之図
         山梨県立博物館 蔵

広重(初代)は寛政9年(1797)生れ、安政5年(1858)没の、江戸時代を通じて最も著名な浮世絵師。
 有名な「東海道五十三次」は天保年(1832)に公用で上方へ上った時に着想を得て、翌年から順次製作・発表したとされる。

「甲陽猿橋之図」は天保13年(1842)に発表された。 下図のように竪大判の竪2枚続、版元は蔦屋吉蔵。
  

 縦長の構図に、そそり立つ渓谷の絶壁と猿橋の姿を見上げる構図。遠景の集落と満月が描かれている。

甲府への旅

 
天保12年(1842)、広重は甲府道祖神祭 の幕絵を制作するために甲府に招かれた。
 同年4月に江戸を立ち、甲州街道を経由で甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。
 
 この時の記録が「甲州日記」(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際の道中、滞在中の写生や日記が書き付けられており、現在の八王子市から見た高尾山、甲府市内から見た富士山や、市内の甲斐善光寺、身延町の富士川など、甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれている。甲府での芝居見物や接待された料理屋の記録などの記録もある。

 この日記によれば、広重は同年日に甲府に到着、滞在中は甲府の人々から歓迎され、句会や芝居見物などを行っている。 日記は一時中断して、11月から再開、この間には幕絵は完成し、手付金は5両であったという。 

 この旅の途中、広重は猿橋周辺の景観に感動し、スケッチ数枚と次のような言葉を旅日記に残している。
 「鳥沢にて下り猿橋まで行く、道二十六町の間、甲斐の山々遠近連なり、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり、十歩二十歩行く間にかわる絶景、言語に絶えたり、拙筆に写し難し」

 「甲陽猿橋之図」は、江戸に戻った広重が、上記のスケッチと記憶をもとに構成して描いたものと考えられる、
 猿橋を見上げ、崖の向こうに遠山や家並み、満月を見通している。縦長の画面を活かして、斬新な構図を用いながら、自然な景観を保ち叙情性をたたえており、広重の最高傑作ともいわれている

広重の視線に近い角度からの猿橋。高さを強調するため、橋の下に実査死にはない満月、山、民家を描く広重得意の構図であることがわかる。
もうひとつの広重のの絵「甲斐さるはし」
 これも広重の絵。
 広重が全国の名所を描いた晩年の人気シリーズ「六十余州名所図会」に含まれる「甲州さるはし」

 紅葉に彩られた橋を見上げる構図は「甲陽猿橋之図」と同じであるが、印象はまったく異なる。

 橋の上の人物、橋の構造は部分拡大しても細かい描写である事がわかり、遠景、岸壁なども見応えのある絵である。
 下を流れる桂川に岩がいくつか描かれているが、これは広重の記憶違いであろう。

 
  
 橋上に旅人が5人、いずれも江戸方面に向かっている。 橋桁の描写は正確で詳しい。
  
 橋の下の遠景と桂川に岩が点在するのは実際とは異なるが、これが広重の絵の真髄だろう。
 
左 ネットの紹介では
 「歌川広重 諸国名所 甲陽猿橋之圖」とあるが、落款は違うようだ。

右 北斎漫画 7編 「甲斐の猿橋」

  
葛飾戴斗

 江戸時代の浮世絵師 葛飾北斎の門人

「甲斐国猿橋の真瀉也」 星亭北寿 画  とある
      ボストン美術館 蔵

葛飾北斎の門人
 寛政末期から文政頃にかけて、風景画や狂歌本などを多く残している。


広重は版画だけではなく、直接筆で描いた肉筆浮世絵も多数残している。
特に天童藩主織田氏の申し出を受けて制作した作品は「天童物」と呼ばれ、有名である。

富士を望む名所の犬目峠の春と、日本奇橋の猿橋の秋を描いた「犬目峠春景図・猿橋冬景図」はこの「天童物」のひとつ。

構図は版画「甲陽猿橋之図」と同じ。
(MOA美術館のHPより)

明治天皇巡幸の様子を描いた「諸国名所之内甲州猿橋遠景」 (山梨県立博物館蔵)

 明治13年の山梨県行幸
 左上に猿橋が見える。左の川を見ると猿橋は上流、すなわち鳥沢の方から見た絵。 
 明治の始め頃は、袴着ー宮谷下ー猿橋は甲州街道が川原の近くを通っていた。 
東町の甲州街道跡 参照

安藤広重作とされる絵  甲州文庫
亜欧堂田善   猿橋眺望図  (府中市美術館)

府中市美術館の説明

江戸時代後期 絹本油彩 一面
37.0センチメートル×67.0センチメートル

 奇妙な石橋、深々とした川面、豊かな緑をたたえる木々、そして青ともグレーともつかない空。にぶい光沢と濃厚な色合いをもった絵肌とあいまって、とても不思議で印象深い画面です。
 作者は、司馬 江漢と並んで著名な江戸時代の洋風画家、亜欧 堂田善です。いまの福島県須賀川市の商家に生まれた田善は、47歳の時に、時の領主であり、幕府の寛政改革の推進者としても著名な松平定信に画才を認められました。江戸へ出て、銅版画や西洋画法を修めましたが、この作品も、江戸で精力的に活躍していた頃の作と考えられます。
 甲州猿橋といえば、いまも山梨県大月市にあって、古くから甲州街道の名所として知られています。ところが、猿橋に足を運んだことがある人ならば、この作品に描かれている風景が、実景とおよそ異なることに気づくでしょう。実際の猿橋は、細かい木組みの構造をもった木造の橋なのです。実景からかけ離れた描写内容は、この作品の大きな謎でした。
 赤外線調査等で絵具層の下に描かれている下絵を調べると、この疑問に対するひとつのヒントが得られます。それによると、はじめ下絵では、橋を実際のように精密に描こうとしていたことがわかります。また川面に水鏡を表すなど、写実的な描写を構想していたようです。しかし、絵具を塗り込んでいく段階で、細かい描写は省かれ、橋は堅牢で大らかな曲線を描く、簡潔な形へと変更されていったのです。
 日本の油絵の歴史は、江戸時代にはじまります。そうはいっても、当時の油絵制作は、唐辛子やごま油を煮込んで、画人が自分で絵具を作るところからはじまりました。ここに描かれているのは、決して目の覚めるようなリアルな風景ではありませんが、油絵具の不透明でねっとりとした材質感そのものが新鮮だった時代の、作者の「絵作り」への情熱が伝わってくるようです。

朝日新聞の紹介記事(2002−12−4)