東町地域の旧甲州街道
宮谷から下りて来た道が国道に合流する所にかつては中央線の鉄橋があった。 そのあたりから東を「新道」と呼んでいた。
ここから別れて左側、東電の水路に沿っている道が旧道、甲州街道だと思っていた。
しかし、調べて見ると甲州街道はここよりもっとずっと桂川に近いところを通っていたようだ。
下の図は原付で甲州街道を走ってみた(その45)というサイトの図である。
現在の国道よりはるか下、桂川に近いところに甲州街道(推定)とある。このサイトによれば蛇骨沢の川を渡るところですこし上に上がるが、今の国道よりはずっと下を通っていたという。
この説をなるほど、と思わせる錦絵がある。
「御巡幸錦絵猿橋遠景之図」という名で、鳥沢から猿橋に向けて甲州街道を行進する天皇一行の図であるが、現在の国道20号線から見える景色ではない。
小向から宮谷下へ向かう甲州街道は、急傾斜を下る急流の宮谷川を渡るために、桂川の川原近くまで下りて、そのっま川原沿いに猿橋へ向かっている。
下の写真はその川原沿いを猿橋に向かう旧甲州街道で、最も川原に近いあたりである。
当然ながら、ここからは猿橋は見えない。
旧甲州街道は、ここから現在の国道より桂川沿いを通り、蛇骨沢を渡るために、やや上流側に迂回して、また国道より低いところを通る。
田村自動車の近くにも旧甲州街道の痕跡がある。
国道から田村自動車の方に下って行くと、すぐ右に入る小さな道がある。
ここから左を見ると、細い道がある。 これが「新道」すなわち国道ができるまでの甲州街道だという。(写真の緑色の帯)
この道は下図のように猿橋中学校へ上る道の近くで現在の国道に合流している。
これが東町地区の旧甲州街道である。
我々が「新道」と呼んでいたのは、藤本新聞店や石井製材所などがあったあたりの地名ではなく、旧甲州街道の代わりに明治になって作られた「新道」であり、中学への入口辺までの道が「新道」だったのだ。