吉川行雄という詩人がいたこと、その人が猿橋の人であったこと、ましてや同級生の吉川誠君の伯父さんであることは
まったく知らなかった。

月夜の詩人 吉川行雄

  


 詩人吉川行雄は通称「活版所」と呼んでいた猿橋活版所の創業者吉川實治の長男として、明治40年(1907)2月19日に生まれた。
  (大原村猿橋197番地)

小学生 20代後半 矢崎節夫著「吉川行雄」

 大正8年(1919)、猿橋尋常小学校を卒業、大原高等小学校に進み、大正10年(1921)に卒業。
 この卒業式で卒業生総代として答辞を読むため壇上に上がろうとして転び、それがもとで歩けなくなったという。
 ポリオという急性ウイルス性疾患だったようだ。14才の年である。

 それ以降は活版所、書店の中で多くの時間を過ごすようになり、昼間は家業の事務作業を受持ち、夜は読書にあてた。
 現在は書店も閉じてしまったが、建て替えられる前の建物には行雄が普段過ごしていた部屋と文机が、そのまま残っていたという。

 小学校時代から詩、童謡の創作を始め、16才の大正12年(1923)に「明日の教育」8月号に初めて西条八十の撰で童謡3篇が掲載された。
 その後、色々な文芸誌に投稿し、大正13年(1924)には山梨県教育会北都留第二支部の雑誌「銀の泉」発刊に尽力した。印刷は吉川活版所。
 昭和2年(1927)、童謡集「郭公啼くころ」を出版。昭和4年、二冊目の童謡集「月の夜の木の芽だち」を出版。

最初に出版した童謡集「郭公の啼くころ」
  19cm X 17.5p   非売品
  昭和2年7月20日 印刷
      7月30日 発行
  著作、発行者    吉川行雄
  印刷 猿橋活版所  吉川實治

 北原白秋の「赤い鳥」、野口雨情の「金の船」、西城八十の「童話」などの文芸誌が相次いで発刊されていた時代、行雄はこれらの文芸誌にも投稿し、更に「乳樹」には北原白秋らとともに同人として参加している。
 歩行が不自由だった行雄は、家業を弟の秀雄に任せ、文芸活動に没頭した。 この弟秀雄が私の同級生誠君の父である。

 昭和11年(1936)、29才の年、自身が主宰しての雑誌「ロビン」の発刊にとりかかった。
 知人、友人に参加を求め、9月25日に第一冊を発刊した。

表紙    奥付
ロビン 第一冊
ロビン第二冊

 第二冊は同年12月に発刊の予定だったが、翌年の2月1日にずれこんだ。行雄の病状が悪化したためだ。
 第三冊、第四冊の特集の構想も出来ており、第三札は4月刊行と公表していたが、行雄の体がその発刊を許さなかった。

 5月9日午後6時、30才という短い人生の幕を閉じた。

 僧儀は2日後に行われた。 吉川家から心月寺まで長い葬列が続いた。

活版所前から心月寺に向かう葬列
新猿橋を渡る葬列

後方は天皇山

手前右の橋畔にモダンな街灯が見える。
戦後、ここに「かわりや」という駄菓子屋と理髪店があった。

吉川行雄の作品

  数が多すぎて紹介できない。
  いくつかの作品が「大月人物伝」の吉川行雄の項に紹介されている。

吉川行雄への手紙 
  文学仲間からの手紙が多数残っており、「月夜の詩人」に紹介されている。
  猿橋を離れて住む親戚の女性からの手紙が、猿橋を懐かしむ心情がよくあらわれているので、紹介する。手紙

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