昔の校章              手塚人氏提供

猿橋小学校

  校歌に、
     〽明治7とせ~
  とあるように、猿橋小学校は明治7年(1875)に開校した。
  
  市史によれば、明治7年、猿橋、小沢、藤崎の3校が開設された。
  猿橋学校は明治26年(1893)まで心月寺本堂を仮用し、その後、奈良五郎右衛門宅の一部(間口8間半、奥行5間の二階建)を使用していたという。
  奈良五郎右衛門宅はどこにあったか?
  猿橋尋常高等小学校編の「学校経営の実際」(国立国会図書館蔵)には
関屋奈良五郎右衛門宅とある。 
  明治家並絵図では関屋には奈良?平という家があるが、これが奈良五右衛門の後継者だろうか?。  
  これに関する検討は後に述べる。

    
           猿橋尋常高等小学校編  山梨県教育綱領による学校経営の実際

 歴史
  北都留郡誌におよび「学校経営の実際」でその後の経緯をまとめと次のようになる。

   ・明治20年(1887)5月、小沢小学校・藤崎小学校を合わせ大原尋常小学校となった。
                (小沢には分校、藤崎に出張所)
              この年から授業料徴収 (1年5䬻、2年8䬻、3年12䬻、4年16䬻)  
   明治19年(1886)北都留郡唯一の「北都留郡高等小学校」を設置
   ・明治25年(1892)大原、賑岡、富浜、七保 4ヶ村組合で猿橋高等小学校設立    
   ・明治26年(1893)小沢、藤崎、小篠小学校が独立。
              猿橋校舎はこれまで心月寺から(関屋)奈良五郎右衛門居宅へ移転仮用
   ・明治29年(1896)大正時代の町並図に見られるように小柳町に校舎が新築
   ・明治36年(1903)校舎狭隘のため、小倉東光寺に分教室を設置
   ・明治37年(1904)校舎新築(工費 468円)
   ・明治41年(1908)高等科を併設、猿橋尋常高等小学校に改称
   ・明治42年(1909)校舎増築
   ・大正12年(1923)校舎狭隘につき二部授業開始(翌年解消)
   ・昭和 4年(1929)御真影奉安所寄附され奉遷式挙行 
   ・昭和 5年(1930)学制改革 4年制から6年制に
   ・昭和 6年(1931)北都留郡少年野球大会で優勝
   ・昭和 8年(1934)校旗制定 
   ・昭和10年(1935)「学校経営要覧」発行、千部印刷
   
   ・昭和30年(1955)開校80周年記念で図書館新築
   ・昭和34年(1959)L字形校舎を本館と直列に
   ・昭和37年(1962)伊良原へ新築移転

   ・昭和62年(1987)開校100周年


   猿橋尋常高等小学校の沿革(昭和10年まで)

幕末 心月寺の住職英(はなふさ)維明が寺子屋を開いていた。
明治 8月2日 学制発布
11月13日 心月寺本堂で猿橋学校開校(小沢学校は長応寺、藤崎学校は妙楽寺で開校)y
20 4月1日、猿橋、小沢、藤崎学校を併合、大原尋常小学校に。小沢、藤崎は分校
授業料を徴収 1学年5銭、二学年8銭、三学年12銭、四学年16銭  (月あたり?)
8月1日、校舎を心月寺から関屋の奈良五郎右衛門宅へ移す。
11月13日、「北都留郡高等小学校」設置、開校式を挙行、校舎は寿町八百六商店付近に設置
21 9月27日、伊良原の東方で運動会開催
3月6日、明治猿橋大火、88軒を焼く、多くの小学生が罹災
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   猿橋小学校の変遷(大月市史)


      尋常高等小学校として大正2年から昭和10年までの変遷
(学校経営の実際より)
              (人口5,6千人の町の小学校児童数が1000人!)
                


 校調おおよび校歌
 
   

L字型校舎  入学式の日か?  桜の大木が並んでいた。
L字型校舎時代の見取図

 左側の教室(4教室?)は1年、2年生の教室として使われていたが、入学式、卒業式などの行事の時は、教室間の壁を取り外すようになっており、講堂としても使われた。
 学芸会は白猿座で行われる事が多かったが、この講堂で行われた事もあった。
 机を並べてその上に敷布を敷いて即席の舞台、演台にもなった。
 L字型の角に音楽室、職員室の向いに理科室があった。

昭和30年、40年代の教員、児童数は下記の通りである、  (大月市史)
昭和30年代は藤崎、小沢小学校が別にあったにもかかわらず、1学年100名程度で3クラスに分けられていた。

昭和 西暦 職員数 男子 女子 合計
22 1947 28 963
23 1948 29 610
26 1951 20 588
28 1953 19 533
39 1955 19 535
32 1957 19 555
34 1959 20 315 264 579
36 1961 19 339 305 644
38 1963 17 291 257 547
42 1967 17 227 219 446
44 1969 18 252 238 490
46 1971 18 242 230 472
48 1973 19 227 200 427



現在の児童数は大月市の統計データによれば、1学年50人~60人程に激減している。


校舎の変遷


 
開校以来役150年の歴史を持つ猿橋小学校は、何回か校舎が町内を移転している。

 
第1期 心月寺時代      明治7~20年

 第2期 関屋時代       明治20~26年(29年説あり)

 第3期 現在の警察派出所   明治26(29年)~42年

 第4期 小柳町時代      明治42~昭和37年

 第5期 伊良原時代      昭和37年~

 

第1期 心月寺校舎時代

 本堂

  
明治期の卒業写真  背景は心月寺本堂か?
 

第2期 関屋校舎時代  奈良五郎右衛門宅

 明治絵地図では清水屋の先、右側に「奈良?平」とあり、これが奈良五右衛門宅かと考えていた。
 2軒隣りの「杉本」は相互園

 
 
 しかし、奈良五郎右衛門宅は猿橋143番地と幡野房吉氏の史料にある。
 下は明治8年の公図(藤本氏所蔵)の関屋部分である。
 道路が複雑に交わっているが、後の中央線開通(破れた線)で分断されたところに143番地がある。
 後に中央線敷設で分断されたのでイメージがわかないが、昔、米等の配給所があった永田屋の裏の方、中央線のガードがあったところの左側一体である。
 もし、幡野房吉氏の説が正しいとすれば、ここに猿橋小学校が仮用していたことになる。

 
 
 
第3期 小柳(東)時代
 この期の史料は少ない。  
 「校舎の移り変わり」の図で見ると、寿町と小柳町の境、小柳町側のようである。
 猿橋小学校百周年記念誌には、八百公(八百六)商店付近とある。 
 
 下は明治後期の卒業写真と修了証書  (門柱も建物も小柳の時代と異なる)

     
 集合写真と修了証書がセットであるなら、明治33年であり、ちょうど猿橋小学校が八百六付近にあった期間にあたる。

第4期 小柳(西)時代

 明治42年、新校舎が小柳に新築完成、まず尋常科5,6年生と高等科1,2年生が入り、12月に低学年も新校舎に入った。
 この年、校内に猿橋農商業補習学校が併設されたという。 高等科に進まないものに対する職業教育の類か。

              L字形校舎の全景 本校舎も平屋 (年代不明)


大正12年 二階建校舎に改築  (写真は戦後、昭和22年4月の祭典仮装行列)




    手塚人氏提供写真に昭和30年の猿橋小運動会の写真が多数掲載されている。

      平屋校舎移転の途中?  (中込先生のアルバムより)


            平屋校舎移転でL字型解消、校庭拡張 (昭和30年代初期)


      昭和30年代 運動会の練習か?


   創立80周年記念 図書館の新築落成式    前列に座っている人 加藤 洋 PTA会長


伊良原へ移転後の猿橋小   周囲は田圃だらけ


創立100周年記念事業  創立100周年を迎えた昭和49年(1974年)、次のような記念事業が行われた。



そのひとつ「蛍雪百年」と題する百周年記念誌を発行した。
この内容については「伊藤征夫氏提供資料」に全文収録した。



 

 現
在の猿橋小学校


卒業記念写真
    大正初期の集合写真(藤崎または小沢)


  大正中期の集合写真(藤崎または小沢)


  大正後期の集合写真(猿橋)


 昭和初期?の卒業写真 (箕輪とも子さん提供)


 昭和初期の卒業写真 (箕輪とも子さん提供)



 紀元2600年記念の学芸会(昭和15年)