大黒屋
大黒屋旅館猿橋の橋畔にあった。その当時の客室11室、収容客数40名とされる。
直営の自動車部を設け、猿橋駅から旅館までの送迎を行っていたという。
昭和7年、新猿橋架橋で間口が狭くなった大黒屋
日立製作所史に掲載の大黒屋旅館(新猿橋架橋前か)
現在の大黒屋
「峡東文庫」より
「桂畔閣 大黒屋ホテル」と名乗っていた時代もあるようだ。
下の絵は東京・横浜方面の客に、猿橋「桂畔閣 大黒屋ホテル」に泊って、猿橋の見物、大菩薩登山などをした上で、直接富士山方面に行くように勧めるパンフレットだと考えられる。
「峡東文庫」より
外国人向けの食事メニュー
外国人の客対応の英語のメニューが残されていた。
小俣敏彦コレクション館その他蒐集品 参照
国定忠治が泊ったという故事から名付けた「忠治そば」が有名だった。 国定忠治 伝承 参照
日立製作所創立秘話 大黒屋会談と日立製作所 参照
また、日立製作所の創業にかかわった技術者二人がここで創業の打合わせをした、という事から、それを記念する作品が飾ってある。
日立工場の「特殊会」の寄贈という事である。
日立製作所 創業秘話 一部
小平浪平は、駒橋発電所から東京まで、当時世界最高レベルの送電を行う設備の設計・施工を担当していた。
明治39年(1906)、猿橋橋畔の大黒屋旅館で、大学時代の旧友である渋沢元治と、夜を徹して語り合い、外国製品と技術者の手によるものではなく、国産技術で作れるようにしないといけないと、決意した事が後の日立製作所の創業につながった。
大黒屋再開のニュース 読売(2022.7.30)