加藤光長日記 (大月市史)
加藤光長(明治21年生まれ)は現在の七保町浅川で水車による製紙業及び機業を営み、村内屈指の実業家となった。
後に七保村会議員、七保町長などを勤める。
大正10年から昭和38年までの長期間書き続けた日記の一部が大月市史に掲載されている。
商売、甲斐絹組合会合などで頻繁に猿橋へ自転車で出かけており、その都度水明楼、魚三などで食事、宴会し、小松屋、大黒屋、時には
水明楼も泊っている。
大正12年9月1日(土)晴
正午迄工場ニアリテ勤務シ、奈良子コンジニ葬式アリ。
義夫、宗太郎氏等ト林迄行キシモ、強震ニ遇ヒ、引キ返シテ見レバ、本宅ノ西土蔵大破損シテ、土落チ、目モ当てられず。
各地ノ被害甚ダシク、本宅並ニ工場ニアリテ、夜モ眠ラレズ、実ニ未曾有鵜ノ大地震ナリ。(後略)
大正14年5月3日(月)晴
早朝、自転車ニテ絹45疋持チ市ニ行キ、三人ニ売却シ、比較的価格ヲ下ゲナカッタ。
夫レヨリ、猿橋ニ行キ、、お艶ウドン昼食ニテ、競馬場見物ニ行き、(後略)
大正14年10月19日(水)晴
午前九時出発、自転車ニテ猿橋行、競馬場ニテ七源、保基氏等ト共ニ昼食ヲ済シテ、午後三時半迄見物シ、帰途河合ニテ理髪
シテ、安藤義雄氏ト同行ニテ、午後六時帰場シタ、(後略)
大正14年3月27日(日)晴
(前略)相馬、小俣、鈴木、小高等ト猿橋ニ行キテ、水明楼夕食シテ、政友会ノ政談ヲ聞キ、小松屋ニ止宿シタ。
大正15年3月3日(火)晴
(前略)深津ト共ニ自動車(小俣昼食)デ猿橋二行キ、大黒屋ニ陣取リテ酒食シ、西部ノ協議ヲナシ(後略)
大正15年3月10日
午前9時出発、深津ト共ニ小俣方二至リ、小高ト四名ニテ猿橋ニ行キ、組合会ニ臨ミ、午後四時閉会。直二休憩シテ魚三ニ
引上ゲ、中西部合同協議ナシ、小俣孔元氏モ立寄リ、大体役員ハ区劃割ヲナシタガ、七保ハ洩る事トナル。組合ニテハ、
上野原田中ガ西室ノ院外団ニ殴打サレタ騒ギアリ。水明楼二止宿シタ。(後略)
大正15年3月24日(金)晴
午前9時出発、深津ト共ニ自動車デ猿橋着、大黒屋ニ小休後組合ニ行キ、種々ノ経過ヲ以て選挙トナリ、(中略)選挙終了シ
大黒屋ニ引上、酒食後、雨ノ為メ宿泊シタ。