水明楼

 仲町の郵便局の裏側にあった水明楼は、近郷近在の人達が会合や競馬場見物に来た時に食事をしたり、宿泊したりした料亭だった。
 加藤光長日記にもその事が書かれている。

         明治 絵図                     大正 絵図

   

 この水明楼の経営者の後裔にあたる手塚人氏は水明楼の歴史について次のような文を寄せて来た。


 明治29年頃、手塚敬三郎(信州・旧上田藩士)が大原村猿橋40番地の幡野家隠居所(別荘)を借り、小さな宿屋程度だったものを料亭にして起業した。 
 敬三郎は開業以前の明治23年頃から老父を伴って大原村に移り住み、四方津方面の小学校で教諭をしていたとの話もあるが、真偽は不明である。
 
 明治31年に敬三郎が早逝したため、養女の柳がわずか9歳で相続した。(柳の幼少時は敬三郎の妻が経営か?)

客はお役人・絹糸売買の実業家・遠方から白猿座にやって来る趣味人などが主であり、あまり地元の人は利用することがなかったようである。
 食事は当時殿上にあった栄楽屋に仲町まで来てもらい、刺し身などの新鮮な魚類を、また桂川の鮎料理を提供していた様子である。

 明治年間には、伏見宮・北白川宮・浅香宮の三人の皇族殿下がご休泊された。(月日不明)。
後年七保町下和田の歌人「幡野谷水」は、ご休泊の光栄に浴したことを皇居の庭にあるくれ竹の様に詠んでいる。
   
     (和歌原文は万葉仮名)    下に写真あり。

       九重の 庭のくれ竹 さよならむ 水明らかに 願などこめて

「水明らかに」は水明楼の「水明」にかけている。

他にも政治家高橋是清・福島安正陸軍大将などの休泊があった様子だが、北都留郡役所が廃止された大正15年をピークとして、その後は下降、実質的営業は、戦況が深刻化してくる昭和13年頃の約50年間くらいだったようである。

                                   手塚人        
                      

 水明楼の大きな玄関をは入ると、正面に大きな時計がかかっており、その隣りに電話室があった。
 二階には表側に小さな部屋が並び、奥側に大広間があった。 
 大広間の窓下は桂川の清流で、川音も聞えた。

  水明楼 正面  昭和10年頃の写真か  (手塚人氏提供)


   国道側から見た水明楼 昭和30年頃か
   
                                      

 水明楼は当然ながら全体が和風作りであるが、一階の左側一室は洋室になっていた。おそらく昭和前期の景気が良い頃、カフェに改造されたものと思われる。
 ちょうど、このページの背景色のような色のモルタル壁で、隅の方に、注文を聞いたり飲み物、食べ物を出す小さな窓があった。
 人氏の話によると、水明楼はまず上記の建物の裏側部分(幡野氏の別荘)で旅館業を始めた。その当時は門や庭園を備えていたが、その後業務の拡大で表部分を増築し、写真のような建物になったという。

 水明楼が配布したマッチ箱


水明楼の焼印と掛軸   いずれも手塚人氏提供

 焼印  木製の備品などに押す焼き印のコテ

 
 掛軸 
  


  
   和歌

    九重の 庭のくれ竹 さよならむ

         水明らかに 願などこめて

  九重は宮城のこと。 皇居の庭の呉竹の様を詠んだ句
  「水明らかに・・・」は水明楼とかけている。


  左の添書には

    名橋猿橋水明楼、於明治年間、伏見宮
    北白川宮、浅香宮殿下御休泊浴光栄
                 谷水謹詠

  とあり、三人の皇族の宿泊の光栄に浴したという。


  書いたのは幡野谷水という人。