広告に見る猿橋の商人 明治

 明治19年に発刊された「甲州道中 各家商業便覧」は、その頃の郡内の主要産業であった甲斐絹の取引のために、この地を訪れる商人達の
ガイドブックのようなもの


 この中に、猿橋の商人宿として「荒井」「大黒屋」「小松屋」の3軒の旅館広告がある。
 「猿橋駅」とあるが、「駅」は鉄道の駅ではなく宿場の別称である。

荒井 大黒屋(猿橋西結) 小松屋(猿橋東結)

 大黒屋は橋の南側正面にあったご存知大黒屋

 小松屋は東結(北側)とあるから、今の中学校の入口付近にあった旅館だろう。
 中学への階段の右だったか旅館のようなものがあったが、小松屋ではなく、なぎさ旅館という名前だった。
 小松屋は高いところにあったから、正面下に猿橋、前方に猿橋宿の家並が見える景色の良い旅館だったろう。

 猿橋はほぼ南北にかかっているが、橋の北側を「東結」、南側を「西結」と表現している
 甲州街道は江戸から甲府の方へ東西に伸びているので、実際は橋の南側であるが「西結」、北側であるが「東結」と呼称する方が旅人達にわかりやすいのだろう。
 
「荒井六郎兵衛」は仲町、現在は山口さん宅のところにあった。

 旅館の他に薬種屋、太物荒物の松葉屋、菓子屋の亀本の広告がある。
 「薬種」は現在も続く梅沢薬局だろう。
 太物荒物の松葉屋、菓子所の亀本はどこにあったか、大正時代の地図では確認できない。 

荒井 大黒屋(猿橋西結) 小松屋(猿橋東結)

「講」に指定された旅館

 江戸時代から「富士講」「大山講」などのように、目的地を決めて同行の士が集まって行く団体旅行が盛んに行われていた。
 この「講」はあらかじめ各地の旅館を定めている。一種の協定旅館である。
 いろいろな「講」の史料が残っているが、下は一新講社という「講」の明治9年の協定旅館リストである。
 猿橋では「いけだや仁助」が宿泊、「大黒屋小八」が宿泊、休憩の旅館として指定されていた。