運送業者の変遷
宿継制度
江戸時代の荷物運送は宿継制度の上に成り立っていた。
各宿場に問屋場 (といやば)が設けられ、宿場の最高責任者である問屋(といや)、
補佐役の年寄、事務担当の帳付が詰めていた。
問屋場の業務は次のふたつに集約される。
・幕府(道中奉行)があらかじめ決めた数の人馬(人足と馬)を用意しておき、
幕府の公用旅行者などの荷物を次の宿場へ運ぶ役目
・幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務(継飛脚)
公用の荷物を携行する旅行者(幕府役人)は、隣の宿場で調達した人足や馬をここで
返し、改めて幕府発行の書類を宿役人に提出し、必要な人足と馬を提供してもらい、
次の宿場に向かう。
これはすべて無料である。 この役務は宿場の義務であった。
その代り、幕府役人以外の旅行者からは所定の運賃をとり、問屋の経費に充てた。
隣の宿場までの運賃
猿橋から駒橋へ 猿橋から鳥沢へ
本馬 38文 61文
軽尻 25 41
人足 19 29
問屋の風景 庄野
問屋の風景 藤枝
猿橋宿の問屋場は甲州街道の曲がり角(現在のガソリンスタンドあたり)から
2,3軒目あたりにあった。
大月郷土資料館 ジオラマ
この宿継制度と平行して、江戸中期以降、「荷問屋」と「中馬」というが業態が
成立し、発展しはじめた。
荷問屋
荷問屋は宿継によらず、荷主から委託された荷物を引受けて保管、また注文主の
依頼を受けて生産地や集積地からの購入・輸送手続の代行業務を行い、その口銭を
とって収入とした。
郡内地域で云えば、生糸を買い集め江戸や横浜に送る、などの業務である。
荷物輸送だけでなく買い付け、販売などの業務が加わり、現在も続く「問屋(とんや」
の原型となる。
江戸後期、猿橋では阿良居(荒井)六郎兵衛が、旅籠とこの荷問屋を兼営していた。
場所は仲町の山口花屋さんのあるところと推定される。
この旅籠には、明治維新の時、甲州街道勝沼で新撰組あらため甲陽鎮撫隊と戦い、勝利
した官軍一行が翌日猿橋宿に泊り、「本営」をおいた、猿橋宿でも代表的な旅籠であった。
官軍が宿泊 参照
明治の町並図 仲町 |
本陣 脇本陣 奈良屋 奈良加蔵 奈良七郎左衛門 奈良五次右衛門 |
荷物問屋 中問屋 荒井六郎兵衛 幡野昌之 |
甲州道中荷問屋の申し合わせ 大月市史
「中問屋」幡野昌之について
上の明治町並図の荒井六郎兵衛の西隣に「中問屋」幡野昌之とある。
場所はかって郵便局があったところである。
「中問屋」は「中馬問屋」の事だと考えられる。
「中馬」は山岳地帯の信濃・甲斐で発達した輸送業態である。
宿継による荷物輸送は、宿場に着く度に馬、人足を替えなければならない。更に駄賃や
問屋場口銭を徴収された。
この不便、不利を克服するため、沿道の農民が副業として客が指定する場所まで自分の
馬を使って駄賃稼ぎを行うようになった。
これが次第に専業化され、遠くの目的地まで荷物を運ぶようになった。 これを「中馬」
と呼ぶ。
中馬は宿場で馬を替える必要がない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組みで
行われるため、途中で手数料を取られたり、荷物積み替の際の荷物破損などが少なく、急速
に発展した。
しかし実際には同じ馬で信州から、あるいは甲府から江戸まで通して運ぶ訳に行かず、
途中で馬を替える必要もあった。
このため、中馬の業者は組合を作り、相互に疲労した馬、病気の馬を預り、代りの馬を
提供するなどの協力体制を構築した。
しかし、従来からの宿場問屋は幕府の公的輸送負担を課せられる上に、一般の荷物輸送の
収入を奪われ、大きな打撃を受けた。このため両者の間の紛争が絶えなかった。
さて、猿橋の中(馬)問屋幡野家は、こうした状況から新しい時代の業務「郵便」に目を
つけ、明治8年、郡内ではいち早く郵便局を開設した。
宿駅制度の廃止と陸運会社の設立
明治維新による急激な社会体制の変化は宿場町猿橋にも大きな影響をあたえた。
明治3年10月、本陣、脇本陣が廃止され、公的な扶助がなくなった。
また、特権であった玄関および上段の間を一般の旅籠でも造ることができるようになった。
明治4年12月、山梨県は甲州街道各宿場に宿駅制度の廃止を申し渡した。
明治5年2月、甲州道中各駅(宿場)に陸運会社を創設し、相対賃銭をもって人馬の継立
を大蔵省に稟議し、7月18日許可された。
7月、宿駅制度による荷物輸送手段の代りとして、各駅(宿場)に陸運会社を設立する事
とした。
その内容は
・口銭撤廃
・相対賃銭の原則
・街道の往還稼ぎをするものをすべてをこの陸運会社の下において統制、
・賃銭の1割5分を徴収して会社の経費にする
・入社希望者は分限に応じて出金(資)する
・各駅に会社総代人と称するもの数名を設置して事務を執る
などである。
猿橋宿では、江戸時代から宿継など運送業務に携わっていた荒井六郎兵衛、脇本陣だった
奈良七郎左衛門ともう1人、計3人がこの陸運会社の傘下に入った。
(明治絵図には脇本陣奈良七郎左衛門とは別に「奈良屋」が見える。この関係は目下の
ところ不明である。)
他の駅(宿場)の状況は次の通りである。
初狩駅 13名、花咲駅 6名、大橋駅 10名、鳥沢駅 6名、犬目駅 13名、
野田尻駅 9名、鶴川駅 4名、上野原駅 6名
猿橋駅(宿)陸運会社の仮送り状が古物オークションに出されていた。
明治5年7月8日発行の仮送り状で、10,000円で落札された。
陸運会社のその後
陸運会社の体制は長続きしなかった。経営は思わしくなかった。
明治6年3月、甲府柳町に江戸時代からの長い「中馬」の伝統を持つ中馬会社が設立され、
上記陸運会社から脱退、中馬会社に入社したいという者が多くなった。
猿橋の幡野六郎兵衛(荒井六郎兵衛)もその一人で、7月に中馬会社に入社した。
この動きで陸運会社は12月に解散、かわって東京に本社がある内国通運が、陸運会社に入社した人達と個人的に継立引受人、取扱所の契約を結ぶ事になった。
鳥沢駅の杉本治平、猿橋駅の奈良七郎左衛門、大橋駅の小宮新五左衛門、花咲駅の鈴木長兵衛、初狩駅の富田右内、笹子駅の天野五郎左衛門などである。
また同時に内国通運は中馬会社とも相互協力の契約書をとりかわした。
明治8年現在、猿橋には中馬会社の幡野六郎兵衛と内国通運傘下の奈良七郎左衛門が運送関連の業者として存在していた。
鉄道開通後の殿上
明治35年、中央線が開通すると鉄道輸送が中心となる。
運送業者は猿橋宿の町中にいるより、鉄道駅近くの方が便利となったため、殿上の駅前通りに移転した。
大正11年の町絵図(下)でも、駅前通りに奈良運送店、宮田運送店、上野海陸□店などの運送業者が見える。
森健次氏によれば、町中にあった荒井六郎兵衛の店は、中央線が開通すると駅前通りに移転し、日通の取扱店をやっていたという。
下図では「高橋糸繭店」とある。これが荒井六郎兵衛店が時代の変遷にあわせて業態を替えたのか、別の人の店なのかわからない。
奈良運送店の子孫、奈良威氏によれば、猿橋の町中にあった奈良屋は鉄道開通後、家屋敷を売り、殿上に移転、駅前で運送業を営んでいたという。
仲町の仁科薬局、田中屋呉服店などがあった家屋敷の売却価格は50円だったという。いつの時代のことだろう。
明治初期、運送業をやっていた奈良七郎左衛門との関係はわからないという。
大正年間の猿橋駅前