大日本国防婦人会猿橋町分会
「大日本国防婦人会猿橋町分会」の会報という珍しい史料の提供があった。(天野和美さん提供)
大日本国防婦人会は、昭和7年(1932)から昭和17年(1942)まで存在した婦人団体。
略称は「国婦」。割烹着と会の名前w墨書した白タスキを会服として活動、出征兵士の見送りや慰問袋の作成など、銃後の活動を行っていた。
大坂で始った活動が全国に広がり「大日本国防婦人会」として最盛期には700万〜900万人の会員がいたといわれる。
昭和13年、靖国神社大祭に参拝する婦人会代表
今回提供があった史料は、この全国組織の下部組織として結成された猿橋町分会の会報第一号である。
昭和14年6月の発行とある。
内容は、国防婦人会猿橋分会の会則、昭和12年度、13年度の事業報告、それに会員名簿である。
会則および事業内容 会員名簿 |
昭和14年6月の発行。
会則、事業内容を見ると、およそ次のような活動を行っていたようだ。
・出征兵士の見送り
・留守家族の支援
・傷病兵や遺骨の出迎え
・慰問袋の調達と発送
・甲府の陸軍病院や兵営を訪問、洗濯などの活動
・防空演習
など。
猿橋町役場前 防火訓練 これも国防婦人会の活動のひとつか?
ただ、更に会則を読み進めると、下部組織として作られた「愛国一銭貯金組合」を通じて、会員に半強制的に節約、貯蓄を励行する活動が主だったように見える。
いすれにしても、日中戦争から太平洋戦争に突き進む軍国政府の意を汲んだ国民運動の一つだった。
猿橋町分会は更に
殿上 1,2組 小柳
寿 仲町
横町 橋向1,2組
小倉 田中
幡野 小沢
旭小沢 小田
太田 久保
津成 小篠
の14班にわかれ、班長、組長をおき、それぞれ貯蓄を競っていたようだ。
昭和14年の会員数は862人で、その時の積立金合計が2619円とある。一人あたり3円位の貯蓄である。
各家庭が苦しい家計の中から貯蓄したこれらの金がその後どうなったかはわからない。
恐らく戦後の超インフレで紙屑同前になってしまったのであろう。