橋の近くの映画館 橋映の資料、写真をお持ちの方、是非ご提供ください。
猿橋に常設映画館があった。 橋映(キョウエイ)と呼ばれていた。
大月に「明月座」「エクラン座」のふたつの映画館を持つ内藤興行という会社の経営だった。
猿橋架替記録映画の「山王宮祭典」のシーン (昭和27年) 神輿行列の後に「橋映」がちらっと映っている。 隣は山崎分店 |
「橋映」なのか「橋栄」なのか、とにかく「キョウエイ」と呼ばれていた。
いつごろ開館したのか定かではないが、おそらく昭和20年代の後半だったろう。
大月の「えくらん座」「明月座」と「橋映」、3つの映画館で一つのフィルムを使っての持ち回り上映だったのだろう。自転車でフィルムを持ち回りをしていた。何かの事情で次のフィルムの到着が遅れると「しばらくお待ちください」というメッセージがあり、おとなしくフィルムの到着を待ったものだ。
えくらん座
「橋映」は山崎パン店の支店の左隣りだったが、地面がだいぶ低い所だったので、橋に通じる道から階段数段を降りて入口があった。前を五ヶ堰が流れていたような気がする。
白猿座に映画設備があり、臨時に映画館として開館することがあったが、「橋映」は常設館。近在の村々からも観に来る客が多く、大変盛況だった。
東映も、東宝も、大映も、松竹も、日活も、そして新東宝も、ずべてごっちゃにしての3本立だった。中学の頃、甲府へ行くと、「甲府東映」「甲府東宝」のように系列別の映画館があるの見て、猿橋はどこの映画も見れて便利だと思ったものである。時に洋画も上演された。「シェーン」、「真昼の決闘」などの西部劇の名作もこの映画館で観た。
町の中の方々に派手な宣伝ポスターが張り出されていた。ポスターの貼り場所を提供した家、店には「ビラ下」と称する入場料割引券が渡されており、映画を観に行く時は必ずこの「ビラ下」をもらっていったものだ。
中学校や小学校では映画館に行く事は原則禁止になったいたが、次第に「禁止」がゆるめられたようだ。
裕次郎の「嵐を呼ぶ男」、東映オールスターの忠臣蔵などは大入り満員、すし詰め状態で観たものだ。
館内は木製の公園にベンチが横に2つか3つ、縦に10列ぐらいだったか。多くても100人くらいの定員だった。スクリーンの横にトイレの入口があり、時によっては、トイレに匂いが客席まで漂ってきた。
映画館の左となりに用水池があった。 プールのような長方形の池だった。多分、「五ヶ堰」が桂川に落ちる前にこの池に溜めて防火用水として使っていたのだろう。 小学校にも中学校にもプールがない時代だったから、「これが水泳プールとして使うことが出来れば」と思っていたが、あのぼうふらが湧いていた「五ヶ堰」の水ではそれも無理だったろう。