遊び場
遊び場
町の中に空地がいっぱいあった。
塀に囲まれていたところ、畑になっていたところは別だが、多くは子供達の遊び場だった。
私の子供時代の遊び場の拠点は「中宿の前」だった。
ここは空地ではない。 クリーニング業などをしていた中宿(花田さん)の作業場で、下の写真のように、「洗い張り」の干し場だった。
和服(着物)は、単(ひとえ)物は丸洗いも出来るが、袷(あわせ)は、表地と裏地が含んだ場合の伸縮度が異なるため、丸洗いすると型崩れする。このため、紬(つむぎ)などの高級の着物は一度全部をほどき、元の形(反物)に戻して洗う。
洗い終わった反物は歪みを生じているため、伸子(しんし)という細い竹の両端に針をつけた専用の道具を使って、反物の形を整えながら乾燥させる。このために反物の長さに十分な作業場が必要となる。 反物の一反は巾9尺5分(約36cm)、長さ3丈(11.4m)なので、この作業場の奥行は12〜13mはあったと考えられる。
昭和30年頃には、この洗い張りもあまり見られなくなっていたので、この広場はもっぱら我々子供達の遊び場になっていた。
この持主中宿(花田さん)は江戸時代からの名家で、大原村の村長も勤めた家柄であるが、近所の子供達にはまったく鷹揚で、この作業場で遊ぶ事に一度も文句を云われた事がない。
おまけに、花田さんは前の道路と家の間を下図のようにコンクリートで舗装してあったため、我々にとって恰好なローラースケートの遊び場となっていた。私もローラースケートをここで覚えた。(下の写真)
また、玄関の前に紅梅がきれいに咲く小体(こてい)な庭があり、ここも我々の遊び場となっていた。 本当にさぞざぞうるさかっただろう。恐縮の至りである。
→ 下の写真 |
ローラースケート 中宿の家の前は何故かわからないがコンクリート舗装してあった。 このコンクリートのところでよくローラースケートで遊んだ。 靴タイプではなく下駄のような板の下に車をつけたようなものだったが、どのようにして入手したか忘れた。 これがすごい騒音をたてたのだが花田の家から苦情はなかった。寛容の一家だった。 ただ、転ぶ度にボロ服の肘や膝が破れ、母を困らせたものだ。 |
さて、この作業場での遊びは何といっても野球である。野球と云っても、グローブなど持っていなかった時代だから、ボールはソフトボールだった。
上の図のように右下をホームベースと定め、一塁までは反物一反分、すなわち10mくらいである。参加する人数が少ない場合は二塁を省略して三角ベースとなる。
三角ベース、現在ではしっかりとしたルールがあり、大会も開かれているようだが、我々の三角ベースは単なる「簡易野球」。その都度、臨機応変にルールを決めていた。
打球は三塁方向に飛ぶ事が多く、当りが良くても倉庫にあたってしまう。余ほど当りが良く、且つ高く上がった場合は倉庫を越えてホームランとなる。
たまには右に飛んで志村さんの窓にあたった事もあった。
何が面白かったか、夏の川原通い以外の季節は、毎日暗くなるまで土まみれになり、「野球もどき」で遊んでいた。
まだ幼い下級生が遊びに加わる事がある。 このような正規メンバーでない年少者を「みそっかす」なんて呼んでいた。私の弟もそうである。この「みそっかす」の守備位置はレフトである。年少で下手の上に、上図のように倉庫の向こうなので、ホームベースが見えない。音と声を頼りに守備に就くが、打球をうまく捕ったのを見た事がない。 要は「球拾い」だ。
こんな「みそっかす」の中に、長じて日本の代表的なホテルの社長を勤め、さらにホテル協会の会長にまでまで登りつめた人がいる。たいへん失礼な扱いをしたものである。
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