同級生

・同級生は約150人いたが、まず町内(仲町)から思い出して見る。

・仲町には同級生が沢山いた。

 同級生のなかで特筆する人がいる。「くんちゃん」である。
 理髪屋の息子で、ほとんどの子供が丸坊主であった時代でも、いわゆる「坊ちゃん刈」であった。
 幼い頃から体格に恵まれ、いつもひときわ大きな存在であった。当然けんかも強くガキ大将であったが、本当にけんかをした話を聞いた事がない。
 

 私はこの「くんちゃん」と仲良くしていたお蔭か、いじめが多かった時代にもいじめられた事がない。 何かアメリカの傘の下にいる日本のようだった。

 「くんちゃん」のおばあさんが町役場の管理人のような仕事をしていた。 その関係で何回も「くんちゃん」と一緒に町役場に泊りに行った。
 夕食後、9時頃、役場に行き、向かって左の方にあった座敷に寝た。二人で話す事はいつも決まっていたが、ここでは書かない。
 後述の奈良君の手紙も大きな話題のひとつだった。

 「くんちゃん」は理髪業を続けながら、消防団長を勤めたりし、今は猿橋区長の要職にある。町のために尽してくれている。
 今回も猿橋史談会の会長を引受けてもあい、「猿橋アーカイブス」の事業に多大な協力をしていただいている。

 82才になった今もゴルフをしているという。 中学時代、どんなスポーツ種目でもまるでかなわなかった「くんちゃん」とゴルフで対戦してみたいものだ。 後列右から2人目が「くんちゃん」

・この他にも町内には同級生が沢山いた。
 「くんちゃん」以外に、栄楽屋の俊子ちゃん(現在四国在住)、木林商店の東洋君、ガラス屋の勝利君、田中屋呉服店の初穂ちゃん、仁科薬局の真人ちゃん、須賀屋の満寿子ちゃん、ブリキ屋の治雄ちゃん、たたみ屋の浩ちゃん、などなど。
 
 この中に大藤屋の紘さんという優等生がいた。 学年中で一番の成績で、いつも身だしなみも良く、良家の坊ちゃんだった。尊敬をこめて「紘(こう)さん」である。
 どういう訳か相撲の行司の口上を真似るのがうまかった。
 今回の猿橋アーカイブスでも明治初期の公図の原図になった当時の猿橋の地図を提供いただいた。

 大黒屋の娘、州子(くにこ)ちゃんとは小学校1、2年の頃は家(旅館だったから大きな家)に行って遊んだりしていたが、高学年になると女の子と遊ぶ事もなくなった。
 背が高く、人懐っこい顔立ちで人気があった。 今どこに住んでいるだろうか?
 仲町ではないが、「峰子ちゃん」という同級生がいた。伯父の家の近くだったので会う機会も多く、親しくしていた。今はどうしているだろうか?
    → 今回の催しを妹さんから聞き、電話をいただいた。
 
 大海屋の昭夫ちゃん。覚えているかぎり私が最後に取っ組み合いの喧嘩をした仲だ。ひょろ高くて、中学2年当時、私より2Cmくらい背が高かった。

・殿上だったが、富岡かほりという女子がいた。はっきりとしたもの云いで印象が強かった。
 猿橋には住んでいないが、何年か前にLINEでつながり、猿橋アーカイブスの会合や展示会に夫君(元都留高校長)と共に顔を出してもらっている。

・家は遠かったけど中学の頃から現在まで交友のあるのは奈良重徳君だ。
 藤本紘さんと同じく、当時のエリ−トサラリーマンの長男で、身だしなみも良く、いい男だったので、かなりもてた。

 中学3年の時の運動会、当時流行していた「愛ちゃんは太郎の嫁になる」の仮装を二人でやった。
 私は簡単に羽織、袴だけの仮装だったが、花嫁姿の重徳君は梅沢美容室で何時間もかけた念入りに化粧し、着付けをして登場した。
 下の写真のように、私は高歯を履いていたがこの身長差、当時は20cm近い身長差があったかも知れない。  
 この運動会の後、10月だったか11月だったか、彼の一家は東京へ引越して行った。
 その後も文通を続けていたが、彼から来た手紙で知らされる東京での高校生活は、純朴の猿橋の高校生の想像を打ち破るものだった。

 

 その後も手紙での交友は続いたが、20才の頃だったか、当時人気劇団だった「新国劇」に入団したとの知らせを受けて驚いた。
 「愛ちゃんと・・」の化粧で芽生えたのか、前から意識があったのか知らないが、役者としての道を歩み始めた彼を心から応援していた。

 東京の新橋演舞場、明治座だけでなく、当時大坂に勤務していた関係で、名古屋の御園、大阪の新歌舞伎座などの公演には必ず楽屋を尋ねたものだ。
 楽屋入口から入るから入場料を払わず、色々の新国劇の芝居を見せてもらった。
 NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」にもチョイ役ではあったが出演していた。同級生として誇りに思う存在だった。

 その後、新国劇を退団し、ステンレス関係の商社に就職した、という知らせを受けた時は正直がっかりしたが、彼はその会社で精進し、ついにその会社の社長になった。
 しかも乞われてその会社の株式も買取り経営権も得た。
 今は息子さんに社長の座を譲り、悠々自適の毎日だ。

 後に彼の奥方になる典子さんは、名古屋の御園座に出演している時に紹介された。
 彼女は当時新国劇の女優の一人であったが、紹介された時の印象としては、奈良君より格上の女優とに見えた。
 それもそのはず、後に聞いた話ではあるが、典子さんのお母さんは、あの一世を風靡したムーランジュールに出演していた女優(ダンサー?)だったそうだ。
 その後、結婚することになり、結婚式の司会を仰せつかった。結婚式場は東京のどこだったろうか、私にとっても大変な晴れ舞台であった。
 以降、夫婦ぐるみのつき合いをさせてもらっている。
 長いもので彼との交友も70年近くになる。 同級生の中に、何人かの成功者がいるが、彼は間違いなくその中の一人だ。

・小学校の同級生で、5年か6年の時に愛知県へ転校した友達がいた。
 仲良くしていたので、その後も文通を続けていたが、いつの間にか文通も途絶えてしまった。
 15年程前だったか、神田の古本屋街をのぞき廻っていた時だ。
 私が若い頃出した本が古本屋に出ていたので、いくらぐらいで売られているのだろうと手に取り、棚に戻した時、その隣りに覚えのある名が見えた。
 「加藤活太郎」という名だ。

 古本になっても役にたった本
 
 本の内容は集積回路に関するものだった。私の本も集積回路に関するものだから同じ棚に置かれる必然性があった。
 「加藤浩太郎」、同じ名前だが同姓同名の別な人かも知れないと思いながら、著者の情報をメモして帰った。
 NTTの通信研究所に勤めているようだったので、早速通研に問い合わせて見た。
 通研の答は「その方はもう定年退職されています。」だった。
 連絡先を聞きたかったが、そう簡単に個人情報を開示してくれない。そこで私の名前、出身地は猿橋、ということを付け加え、この名前に覚えがあったら連絡して欲しい、とお願いしておいた。

 その2,3日後に連絡があった。やはりあの加藤浩太郎君だった。
 名工大を出てNTTに入り研究生活を続けていたという。
 早速1,2週間後に予定されていた同級会に出てもらうことになった。
 何10年も縁がなかった猿橋であるが,同級会に出てみるとお互いにたちまち昔のことを思い出し、和気藹々のうちに猿中同窓会の仲閧ノなった。

 加藤君との再会のきっかけとなった本(上図)は、実はもうひとり、別の人との久しぶりの再会のきっかけとなったが、これは猿橋と関係ないので省略する。