兄春満の葬式


 春満は私のすぐ上の兄。戸籍に「昭和15年1月3日生れ」とあるから2才上の兄である。

 兄春満が幼い時に自動車事故で死亡している事は国道の項で述べたが、この葬儀の一端を知る史料が見つかった。
 
 「

 香料受納帳」は葬儀の収支明細書である。

 これによると、葬儀は事故の翌日、昭和19年7月17日に行われている。
 春満は、戸籍簿によれば昭和15年1月3日生れ、昭和19年7月16日午後1時、北都留郡猿橋町猿橋31番地に於いて死亡とある。僅か4年半の短い一生であった。

 幼い頃から「東京方面からのトラックに轢かれて死亡」と聞かされていたが、今回見つかった「香料受納帳」(以下「受納帳」)により、事故が「山梨貨物自動車株式会社」のトラックであった事がわかった。
 山梨貨物自動車株式会社は、現在も存在しているが、昭和38年創立とあり、どうも別の会社のようだ。

  

 事件の現場は猿橋町猿橋31番地とあるから坂本甲斐絹取次店のあたりである。戦前から戦後の一時期、伯父がこの坂本さんの家の半分を借り、「一杉建具店」を営んでおり、すぐ近くに住んでいた我等一家は父が出征中ということもあって、この伯父一家におおいに世話になっていた。
 家族が頻繁に伯父の家との間を行き来していたので、四才半の春満が「一人」で伯父の家に行き来していた事も想像に難くなく、この途上で事故に遭遇したものと考えられる。



「受納帳」 

 ・受納帳の内容を明らかにするのは控えるが、入金、出金のまとめは次のとおりである。
    御仏前を含む香奠の総額         178円50銭
     別に山梨貨物自動車株式会社      600円
    葬式の経費総額              43円19?

 ・香奠の内訳
    町内の人
    父方の親戚
    母方の親戚
    所属していた会、組合など
    その他
      
 ・「町」としてある町内の人の香奠の多くは1円である。
  昭和19年夏といえば、日本軍がマリアナ沖海戦に敗れ、西太平洋の制空権と制海権を喪失した時期。絶対国防圏に敵艦、敵機の侵入を許し、ついには本土空襲につながるターニングポイントにあった。
  しかしこの現実は国民には知らせられず、相変わらず連戦連勝しているものと信じられていた。
  従って翌20年の敗戦以降に経験する強烈なハイパーインフレの徴候はまだないが、国民は日増しに強められる物資の統制に不自由さを感じていた頃である。 
  1万円の香奠は現代感覚でいえば1万円であろう。
     
 ・香奠の筆頭は山梨貨物自動車株式会社の500円である。 別途葬式料として100円とあり、合わせて600円である。
  600円が現在のいくらに相当するか? 前述の町の人達の香奠1円を1万円とすれば、600円は600万円に相当する。
  事故の責任関係は不明であるが、「加害者」が支払う慰謝料として、現代感覚では意外に少ないように思う。

 ・葬式の経費
  米から味噌・醤油、酒まで、当時としてはあたり前だった出費が計上されている。
  意外だったのは「御布施 養福寺 5円」である。
  養福寺は小篠にある臨済宗の寺である。
  恐らく心月寺の住職不在なので、かわりに同じ臨済宗の養福寺住職が回向に来たのだろう。
  考えて見ると、この当時の心月寺住職小笠原雄山氏は出征中だった。
  中学生のの時、国語教師だった雄山氏から中国の前線に出征していた時の話を何回も聞いた事がある。

  支出の中に「医師代 10円」とある。 事故後に治療はあったのかどうかわからない。
  医者は「坂本骼s」とあるので、あの猿橋病院の院長であろう。娘さんが同級生でたしか隆子さんだった。

 ・昔の葬式は、家から行列を整えて心月寺まで行ったものだ。
  昭和49年になくなった伯父の葬儀の事を覚えているが、位牌や供え物、旗などを持った行列が心月寺に向かい、本堂の前で3回廻って墓地に行った。勿論土葬であった。
  
  当時の葬式はこんなだったと思われる写真をネットで見る事ができる。
  左側の写真は参列者に子どもが多いので、恐らく子どもの葬列であろう。 あまり鮮明だと差し障りがあるので、少しボカしてある。

      
   左  http://blog.livedoor.jp/suo2005/archives/52720572.html   
   右  http://blog.livedoor.jp/kanekonoisiya/archives/51402468.html