川遊び お宮河原

 小学生の頃、夏は終日川原で過ごした。
 朝から川へ行き、昼を食べに家へ戻ると、午後はまた川へ。夕方薄く暗くなる頃まで川で過ごした。 だから一日中いたと云っても大半の時間は川原で過ごしていた。

 桂川の泳ぐ所は何ヶ所かあったが、何となく各町の子供の泳ぐところは決まっていた。霞町の子供はナガトロ(長瀞)と呼ばれた上流に、東町の子供はウメツボ(梅坪)と呼ばれていた下流域で遊んでいた。
 横町、仲町、寿町は「お宮河原」だ。
 「お宮河原」は今の国道20号の橋の下あたり。対岸は傾斜のきつい岸壁だったが、南側には砂と石コロの比較的広い空間があり、猿橋では最も子供達が集まった河原だった。
 公民館の左の狭い道から河原に続く坂道があった。いつも日影で暗い道だった。
 
 なぜ「お宮河原」と呼ばれたかは定かではないが、公民館の所に神社(9月に祭礼)があったから、その下が「お宮河原」と呼ばれたのか?
 白猿座の右奥の方から少し下流の河原に降りる道もあった。



 ちょうど真上を新国道の橋が出来たので「お宮川原」の全景は撮影しにくくなった。(下の写真参照)
 橋下右にわずかな砂浜と石ころだらけの川原、そして遊び場の中心「大岩」。左側が「向こう岸」と呼んでいた岸壁だ。
 
 桂川は山中湖から流れて来る清流で、その水は冷たく、ちょっと長く水の中にいると唇が紫色になるくらいだった。
 右側が浅く、左に行くにしたがって深く、流れも速くなる。

 少し泳ぎがうまくなると、対岸の岸壁まで泳いで行き、そこで日光浴をして暖まることになる。 この対岸の岸壁にはアブが多く、良くさされたものだ。
 対岸に戻ろうとすると、足から徐々に水につかるのではなく、飛び込まなければならない。再び冷たい水に飛び込むのが億劫、さりとてそのままアブの攻撃にさらされるのも嫌だし、と辛い決断をしなければならなかった。
 


 中央線の鉄橋がある頃のお宮川原。 左下の岩がお宮川原のシンボル「大岩」。
 ここから向こう岸まで泳げるのが小学校高学年の「あかし」だった。


 手前は砂浜、石ころの川原、対岸は絶壁で、お宮川原に似ているが、「長瀞」と呼んでいた川原のようだ。
 写真には水量が少ない年だったのか、岸壁に通常の水量をしめす白い線が見える。



 泳ぐのに疲れると魚釣りをしたり、魚突きに興じた。
 本格的な鮎釣りは鑑札も必要だったので、子供はもっぱら「うぐい」「はや」「カジカ」等を釣ったり、突いたりした。
 
 釣りには「あんま釣り」という方法があった。 1mかそれより短い竿で、餌に水中の石の底にいる平たい虫をつけて、流れのやや強い瀬で、水中へ竿を前後に動かし、魚を誘う。ウグイが良くつれた。小さな魚なので食用にはならず、ただ釣れた時の「ビビ」とする感触を楽しむだけだった。
 「突き」というのは、20p四方くらいの木箱の底をガラスにした手製の「面」と呼ぶ道具と、モリを使って、主に水底に静止している魚を突く。カジカが良く獲れた。
 時にはウナギの大物を突くこともあった。


「カジカ突きの思い出」より
http://0313.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-3777.html
モリ突きに興じる子供達 後に「貧乏山」が見えるので松河原か

 お宮河原のすこし下流にウメツボ(梅坪か?)と呼ばれた、ちょっと入り込んだ渕があった。
 中学から一番近いのがこの河原だったので、体育の授業で「水泳」に行く事が多かったが、一度このウメツボで近所の子供が溺れたのを目撃した。 かなり時間が経って助け上げられ人工呼吸が施されたが、命が助かったのかどうか記憶にない。

 もっと下流は「松河原」という広い河原だった。 桂川の流れが大きく右に迂回しているので河原に松林がある広い空間があった。
 中学の行事で、この松の林の中にテントを張ってキャンプした事がある。