戦争のこと 

 私は昭和17年4月の生れだから、終戦の夏は3才と3ヶ月か4ヶ月。「そんな幼児期の記憶があるはずがない」とよく人にいわれるが、はっきり記憶している。
 平和の時期に、大きな事件もなく幼児期を過ごした人には、特に記憶に残らないが、幼児期でも大きな出来事があれば記憶として残るのではないかと思っているがどうであろうか。
 また、後で述べるように、その後父母から聞いた事、映画やテレビで見た戦時、戦後の映像を自分の記憶と勘違いしているか、あるいはこれらの情報が記憶を補強しているのかも知れない。
 
父親の出征
 父親の出征について厚生労働省に調査依頼をしたところ、昭和18年10月出征、昭和21年6月帰還しているとの回答があった。 
        兵籍調査報告書  冨次郎の太平洋戦争 参照
 
 この時代、「赤紙」が来て出征することになると、親戚や近所の者が集まり、涙ながらに「おめでとう」「お国のために頑張って下さい」と激励を受け、家の前で集合写真を撮って出征するのが一般的であったが、何故か父親の出征写真はない。
 下は叔父(父の弟)昌義出征の時の写真である。裏面に昭和18年2月19日とあるから、まだ多少の余裕があったのか、わざわざ東京からも静岡からも親戚・兄弟が駆け付けている。
 中央上、母親に抱かれているのはまだ生後10ヶ月の私だろう。もちろん覚えていない。
 背景は「一杉建具店」である。

 

 この時出征した昌義叔父さん、戸籍には「昭和19年9月30日、中部太平洋方面において戦死、甲府連隊区司令官後藤十郎の報告に依り昭和20年7月29日受付」とある。
 父親の出征の時の写真があるとすれば、場所も同じ、写っている人ももほぼ同じ筈であるが見た事がない。 
 写真を撮っていれば当然保管されていた筈だ。 撮らなかったとすれば、既に戦況が深刻になっていて、世の中にそのような余裕がなかったためか。

 父は職業柄、普通の兵ではなく工兵だった。
 軍隊が進駐する宿舎を建てたり補修するのが業務で、南洋諸島に行っていたらしい。 スマトラ、ニューギニヤという地名を聞いた事がある。 
 直接戦争に参加する訳ではない工兵なので、危険はやや少なかったのかも知れない。
 
戦時中の暮らし

 父親が出征し後、子供をかかえていた母は、父親の実家を出て近くの「湊屋」という商店の裏の何室かを借りて新しい生活を始めた。
 大海屋と中込商店の間にあった店で、文具屋だったような気がする。 
 大家さん一家(どんな家族だったか全く記憶がない)は2階に住み、表通りに面した店を除く一階部分を借りていたようだ。
 母は路地に面した部屋で小さな駄菓子屋をやっていた、と後に話していた。

       向こう三軒両隣り   (縮尺はまったくデタラメ)

 
 間借していた中に4畳半程の書斎のような部屋があった。
 ある日、この部屋で遊んでいて、小さな布袋に入った豆らしいものを見つけた。空腹の毎日だったのだろう、食べ物だということがわかり、母のところに持って行き、食べさせてくれと頼んだところ、「これはお父ちゃんが帰って来たらお汁粉にして食べるの、それまで我慢しなさい。」といって、又別のところに隠してしまった。
 父は無類の甘党だ。父のいつ帰っても「お汁粉」でふるまえるよう、食料不足の中で、母が高価の小豆を準備していたのである。

 その間の生活費はどうしていたのだろう。出征兵士の留守宅には手当が出たのか? 伯父一家からの援助があったのか? 


防空壕


 こんなに小さい町でも空襲に備えていた。灯火管制で電灯に黒い布をかぶせて、あかりが外にもれないようにしていた。
 うちの家族が入った防空壕は天王山の山裾に掘られていた。

 空襲警報がサイレンだったのか、半鐘だったのか記憶がない。 戦後かなりの期間、火事を知らせるのはサイレンではなく、火の見櫓の上にあった半鐘だったから、戦時中の空襲警報は多分半鐘だったのだろう。
 警報が出ると、防空頭巾を被って、あらかじめ用意してあった袋を持って避難する。住んでいる所から防空壕まで、直線距離では3,400mほどだが、真渡橋(下写真参照)を回っていかなければならず、倍以上の距離だったろう。
 下り坂、上り坂があり、結構きつい行程だ。
 
 空襲警報が出ても必ず空襲になるわけではないが一応は避難する。何回か避難を繰り返した時、6才上の兄が「こんな田舎町だから空襲はない、俺は家に残る」といって、母を困らせていた。結局同行したのか、家に残ったのか記憶にない。多分なだめすかしてでも防空壕に連れていったのだろう。

 防空壕は近所の何世帯かが共同で利用しており、父の実家の家族と同じ防空壕に入った。隣りがカメヤという電気器具と瀬戸物を売っていた店の主のアキラさんという人が、額に電灯をつけてテキパキと指示をしたり、案内をしていたのを思い出す。 ヘッドランプというのか、炭鉱夫が使っていたアレをつけた30才か40才の長身の人だった。(戦争に行っていない事を考えると40才以上だったか)

 結局、猿橋には空襲はなかった。米軍の基準に満たない規模の町だったからだろう。

@真渡橋 一度ここまで下りて、又上る行程 B防空壕はこんな形の手堀りだった。
 入口は大人がかがんで入る程度の高さ。
        
A切通しの避難壕  結構きつい坂道 左側に避難壕

 舟久保という町営住宅があったところの少し上、今の猿橋小学校正門の少し下に切通しがあり、その左側の壁面に2つか3つの壕があった。
 道を歩いていて急に空襲にあった人のための避難壕か、あるいは物資を蓄えておく壕か。
かなりもろい泥岩のような地質だったせいか、その後の道路拡幅で削られてしまったせいか、昭和30年当時には奥行渡がわずか30cmか40cmしかなかった。

        似た写真をネットで見つけた。

         もっと下、道の高さまで掘ってあった。

機銃掃射

 終戦のわずか2日前、大月に空襲があった。米軍のB29数機による爆弾投下や機銃掃射で多くの死傷者が出た。大月空襲
 
 折から母と二人で伊良原にあったわずかな畑に野菜を穫りに行く途中だった。上記写真のCのあたりで、大月空襲の後なのか、B29の数機が伊良原を通過した。
 急いで母に手をひかれ、とうもろこし畑に逃込んだ。すぐ近くに機銃掃射があった。 一直線に土煙りが上がって行く。
 我々が標的になったのか、畑に働いていた人影を見て標的にしたのか。戦争の費用対効果を考えると、この伊良原という山間の畑地の機銃掃射は、米軍として割に合わない筈である。もしかしたら、とにかく機中から人間が見えると、ゲーム感覚のように、おもしろ半分に機銃掃射したのではないか。
 
  → この記憶は、後に聞いた話、見た映画などでかなり補強されている可能性がある。

玉音放送
 
これも後に映画やテレビの映像等を見て、記憶が補強されている可能性があるが、8月15日の玉音放送を母親と一緒に聞いた事を覚えている、ような気がする。
 

 
家にラジオがなかったので、カメヤの前に並んだ。カメ屋は向かって右側が電気器具の店、左側が瀬戸物の店だった。電気器具といっても、当時は電球とソケットなどの関連器具、そしておそろしく高価だったラジオである。

 前の街道には沢山の人が集まっていた。あの頃は男の人はみな帽子をかぶっていた。

 雑音まじりの放送の内容は当然ながら全くわからなかったが、戦争が終わった、敗けた、という事はなんとなくわかった。
 母が「これでお父ちゃんが帰ってくる」と云っていた。
 
 
終戦直後の生活


 戦後の暮らしは貧しかった。
 父親がおらず、定収入がない家計はどうなっていたのか、今になっては知る由もないが、母がよく郊外の農家に食料をわけてもらいに行っていた。 
 配給はあった。配給所は寿町の永田と小柳町の小学校の前、宮田の二ヶ所あった。配給通帳を持って行って、配給として受け取れる米は僅かばかり、それではよても一家が食べて行けない。どうしても闇米に頼らなければならない。
 家に現金があった訳ではないから、ドラマなんかによくあるように着物を持っていって物々交換をして子供を養う食料を手に入れていたのだろう。畑を持つ農家がうらやましいと、いつも云っていた

 わずかな米を手に入れて飯を炊くと、我々兄弟は母の分を気にすることもなく、無遠慮にがつがつと平らげていた。 折角手に入れた米も母の口に入る事が少なかったようだ。

 伯父の家で食事をする事もあったが、「とうもろこし」や「さつまいも」が入った飯がきらいで、「食べたくない」とだだをこねていたら、頑固な祖母が「そんなわがまま者は放っておけ」と家の外に出されてしまった。
 甲州街道の道端で泣いていた私を見て、母は、祖母の手前、家に入れるわけにも行かず、おろおろしていた。

 あの頃のとうもろこしの粉でつくった食べ物はまずかった。 さつまいもは今も好きではない。

父親の帰還
 父が帰還したのは終戦の翌年、21年の春頃だったと思う。
 ものごころがついた時には父が出征しており、父の顔を知らなかった私は、なかなか父に馴染めず、母の後にかくれていたような気がする。
 
 帰還した日に、母が大事にとっておいた小豆で好物の「お汁粉」をふるまったかどうかはわからない。