冨次郎の太平洋戦争
厚生労働省に調査を依頼した結果、初めて父冨次郎の経歴が一部判明した。
調査結果は別紙の通りである。
父の経歴表のうち、赤字の部分が今回判明した事
明治 | 40 | 1907 | 0 |
6月14日 | 出生 | ||
大正 | 11 | 1922 |
15 | 3月 | 高等小学校卒業 | ||
12 | 1923 | 17 | 8月 | 東京市京橋区築地工手学校二学年卒業 | |||
? | 12 | 10月 | 山梨県北都留郡木工株式会社に従事 | ||||
昭和 | 12 | 1937 | 30 | 2月28日 | 結婚届出 | ||
直 誕生 | |||||||
15 | 1940 | 33 | 5月 | (猿橋)防空監視隊に勤務 | |||
17 | 1942 | 35 | 4月3日 | 勝 誕生 | |||
前半 | 日本軍モロタイ島占領 | ||||||
18 | 1943 |
36 | 4月 | 防空監視隊 退職 | |||
10月15日 | 国民徴用令により徴用 | ||||||
舞鶴海軍施設部普通工員に採用 | |||||||
10月21日 | 第32設営隊に所属 |
||||||
南洋諸島モロタイ島へ派遣 | |||||||
19 | 1944 | 37 | 9月15日 | 米軍モロタイ島攻撃開始 | |||
10月4日 | 米軍モロタイ島制圧 | ||||||
20 | 1945 | 38 | 8月15日 | 終戦 | |||
21 | 1946 | 39 | 5月30日 | 輸送船V73で田辺に到着、上陸 | |||
6月15日 | 徴用解除 | ||||||
22 | 1947 | 40 | 3月16日 | 進 誕生 | |||
24 | 1949 | 42 |
9月28日 | 勉 誕生 |
冨次郎の太平洋戦争
上記軍暦調査によれば、父は昭和18年10月15日に徴用され、10月21日に舞鶴海軍施設部の普通工員として採用された。
普通の兵隊としての出征ではないから、良く見られる出征の記念写真がないのか?
モロタイ島
モロタイ島は、インドネシア領の北部、最もフィリピンに近いところにあり、ほぼ赤道直下に位置する。
島は熱帯雨林に覆われ、林業と樹脂の生産が主な産業。
太平洋戦争初期の昭和17年(1942)前半に日本軍が占領。
おそらくこの島に基地、兵舎などを建設するために工兵隊(設営隊)が派遣されたのだろう。
昭和19年(1944)9月15日早朝、米海軍77任務部隊がオーストラリア艦艇とともに事前砲撃開始、8時半には輸送船団により米陸軍31師団が上陸戦を開始
日本軍は大きな犠牲を出しながら海岸にあった基地から内陸、山間部へ後退。
10月4日には米軍が島を制圧した。
その後、日本軍は逆上陸作戦で反撃を試みたが大きな成果は上げられなかった。
終戦時には660名の日本兵が投降したが、一部の日本兵は日本の降伏を知らず、ジャングル内で生き延びた。
約10年も経って9人の日本兵が発見され、帰国。台湾籍の日本兵中村輝夫は終戦後30年間も経って発見され台湾に帰国した。
日本軍の犠牲者は、初期は500人以下だったが、最終的には戦没者1693名を数えた。
「モロタイの戦い」
モロタイ島全図 黒線 米国軍 赤線 日本軍
降伏式に向かう日本軍第32師団長石井嘉穂中将 米軍が整備した空港
モロタイ島から日本への輸送船は米軍所属のクイーンズビクトリー号。 1945年5月、カリフォルニアで建造、進水の新造艦艇だった。
排水量10750t、全長:138.68m 幅:18.89m 吃水:8.53m 蒸気タービン1基 出力:6,000馬力 速力:16.3kt
船名 | NAME | 造船所 記号 |
海事委員会 記号 |
建造所 | 引き渡された日 | 備考 |
クイーンズ・ヴィクトリー | Queens Victory | V73 | 789 | カリフォルニア・シップビルディング社 | 1945/6/7 | ◎1945/3/17 起工 ◎1945/5/12 進水 ◎1945/6 War Shipping Administrationに移管されBurns SS Co. が運行 ◎1950 Suisun Bayにて係船 ◎1966 Weyerhaeuser SS Co. が運行 ◎1973 Suisun Bayにて係船 |
田辺
田辺に上陸とあるが、これは和歌山県の田辺港の事だ。大陸方面からの引上げは舞鶴港が有名であるが、南洋諸島からの帰還者田辺港に上陸した人が多い。
田辺には「田辺上陸地支局」が置かれ、外地からの帰還に伴う諸業務(上陸軍人・軍属の宿泊、鉄道輸送など)を行っていた。
父はここから大阪へ出て東海道線で帰ったのであろう。話によると吉原の親戚に立寄った上で猿橋へ帰還したという。