出征前の冨次郎 
 

工手学校

 父冨次郎は明治40年6月14日の生れ、猿橋尋常小学校、高等小学校を卒業後、東京に出て長姉てるの嫁ぎ先である小石川家に寄留し、京橋区築地の工手学校に通った。小石川家は木場で手広く材木商を営んでいた。

 
工手学校は明治20年(1887)に設立された。
 
土木、機械、電工、造家、造船、採鉱、冶金、製造舎密の8学科があり、修業年限は予科半年、本科1年、合計1年半の技能者養成学校。現在の工学院大学の前身である。
 開校当時は京橋区小田原町に校舎があったが、後に淀橋の方に移っている。父は大正11年4月に入学、大正12年8月に卒業しているので、淀橋へ移る前の時代だ。
 学科についての記述はないがそらく造家(建築)科だろう。

 卒業の直後に関東大震災(9月1日)があり、東京は壊滅的な状態となり、寄寓先の小石川家も大被害を受けたため、新宿区戸塚町の方に移り、戦後もその場所で商売を続けていた。

北都留木工株式会社

 その後、軍籍の記録によれば「12年から北都留郡木工会社に勤めていた」とある。
 大正12年なのか、昭和12年なのか不明である。おそらく昭和12年であろう。結婚、長男誕生を機に家業手伝いから木工会社勤めになったと思われる。
 北都留木工会社は殿上の方にあった。この木工会社に勤めていた時代は、給料も高く生活が楽だったと、後で母が話していた。

防空監視隊

 木工会社を昭和15年に退職し、5月から18年4月までの3年間、防空監視隊に勤務していたと軍籍の記録にある。
 父からこの話は聞いた事がなかった。

 山梨県には甲府、南部、猿橋(後に大月)に防空監視隊があり、その本部はそれぞれの警察署内にあった。
 猿橋防空監視隊には丹波・西原・上野原・七保・大月・笹子・谷村・吉田・精進・河口の10ヶ所の監視哨があった。
 それぞれの監視哨には交代で見張り役が勤務し、敵機襲来の兆候があれば、警察署内にあった監視隊本部に連絡し、直ちに東京へ報告するシステムになっていた。
 地元の防空ではなく、富士山を目標にして北上して来る敵機が西から首都東京を攻めて来る兆候をいち早く発見するための前線基地である。
 
 昭和18年、猿橋警察署が大月警察署に改組されるに伴い、猿橋防空監視隊も大月防空監視隊となっている。
 父は昭和15年から昭和18年5月まで「大月」防空監視隊に勤務していたと、経歴表にあるが、大月監視隊となったのは昭和18年の後半だったので、実際には「猿橋」防空監視隊に勤めていた事になる。
 戦後にまとめられた資料なので、改称後の名前がつけられたのであろう。

 猿橋には「監視哨」の現場はなく、監視隊本部だけなので、父はこの本部に勤務していたのだろう。
 18年5月、防空監視隊を辞めたのは、本部が猿橋から大月への移転を機に退職したのか、あるいは出征が間近という事で退職したのか、今になってはわからない。

 大月防空監視所についてはインターネットでもいくつか紹介するサイトがある。
      大月の戦争遺跡      大月歴史資料館      大月防空監視哨跡散策

 これらによると、監視所は大月中央病院の背後の山(通称おむすび山)に監視哨があり、そこで敵機襲来を感知すると警察署内にある監視隊本部に連絡し、東京へ報告する事が役目だった。


 グアム島などから発進した米軍の爆撃機は富士山を目指して北上し、富士山に達すると機首を東に向けて首都東京を爆撃したというから、このあたりは爆撃機の侵入通路にあたる。
 大月の監視所は大月の防空ではなく、首都東京を攻めてくる敵機をいち早く発見するための前線基地である。
 
 
     大月中央病院とおむすび山                   監視哨跡
  

            防空監視隊本部前  女性の隊員もいる。前列右から二人目が冨次郎  

 

      防空監視隊  場所不明 前列中央が冨次郎
 前列中央
     
     出世太神宮前で愛友会友人(鈴木君)の出征記念写真
 

こんなものがネットオークションに出品されていた。出征兵士のたすきだろうが、本物だろうか? 新品同様に見えるが・・・
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