新聞配達のこと
中学生の頃、新聞配達のアルバイトをしていた。
読売新聞の夕刊だ。
朝起が苦手だったので、朝刊配達は無理、夕刊しか選択肢がなかった。
他の新聞だと町内に取次店があって楽だったが、読売新聞の場合、取次店は新道にあった藤本新聞店で、片道1kmはあっただろうか。
道順からして放課後、中学から直接新聞店に行き、新聞を受取って町に戻り配達、ということになるはずだが、あまり覚えていない。
読売新聞以外に「日経」だったか、「産経」だったか、他の新聞も扱っていたので、その新聞を順番正しく読売新聞に挟み込む必要がある。
この作業後、持場(私の担当は横町と仲町)に戻って配達する。
配達の順路は先輩から引き継いだ順路を、自宅の位置で少し修正する。
今も忘れられないのは猿橋病院への配達だ。
病院正面ではなく、裏に回って自宅の方に届けなければならない。
しかし、この病院(長谷川家)では結構大型の犬を飼っていた。
当時、犬は現在のように繋がれてなく放し飼いが多かった。
この犬がどう猛でいつも吠えたてる。 襲われたら小柄だった私はとてもかなわない。
いつも恐怖に駆られながらの配達だった。 ここへ無事に配達を終えると配達のすべてが終わったような気がした。
猿橋病院の後、松葉から白猿座の方へ向かう途上は人家がまばらになる。 富士山の溶岩がごろごろしている所だった。
そんな溶岩の上の家にも配達先(お得意さん)があった。あのあたりの景色、今も変わりないだろうか?
こうして配達する横町、仲町で読売新聞を購読していたのは20数軒。配達料はたしか一部一月10円程だったから、毎月の収入は200円から250円だ。
この200円なにがし、現在の貨幣価値でいくらくらいだろう。 3〜4000円ぐらいだろうか。
比べても詮ない事であるが、翌年の昭和33年、長嶋が巨人に入団した時の契約金が1900万円、大卒サラリーマンの月給が1万円をようやく越えた時代だから、
物価は現在の1/20程度だったろうか。
毎日決まった時間に働かなければならないのは苦痛ではあったが、配達そのものは短時間で終わる簡単なアルバイトであった。
中学3年の一学期、生徒会長をしていた時、突然甲府の方の新聞社のインタビューがあった。
担任の玉水先生の立合だったが、「生徒会長をやりながら新聞配達」と記者からずいぶん誉められ、こそばゆい思いをしたものである。
どこの新聞社だったか覚えていないが、翌日、先生に新聞記事を見せてもらった。読売新聞ではなかった。山日だったか。
この後、野球部のスコアラーもしたりして試合に帯同するなどで忙しくなり、次第に弟の進に代役を頼むようになった。
時々代役をしてくれたお礼に裏町(当時そう呼んでいた)の「石川うどん」で素うどんをおごってやった。値段はたしか10円だった。
この新聞配達で稼いだ金は何に使ったのだろうか。
あまり覚えていないが、当時附録満載だった少年雑誌、子供の化学雑誌を吉川書店で買っていた。野球のスコアブックも取寄せしていた。
これらの雑誌の影響で大枚をはたいたのが鉱石ラジオキットと半田ゴテだった。
近くに放送局がない山間地なので、鉱石ラジオでの受信は大変だったが、NHK、文化放送などを受信できた時はうれしかった。
また、この鉱石ラジオがきっかけで電気通信、電子工学の道に進み、生涯の職となったのは意義深い。
鉱石ラジオのキットはこんな簡単なものだった。
ラジオの組立に使う半田は近くの店では買えないものなので大切に使った。
家の近所で水道管敷設工事があり、鉛がたくさん落ちていたので、これが半田の代わりにならないか、いろいろ試して見たがダメだった。
やがて中学3年生として色々忙しくなり、昭和32年7月から正式に進に引き継いだ。。
進は几帳面な性格で、私の代でも新聞配達の代役をきちんと果たしてくれたが、正式に引き継いだのちは、新聞配達による収入を毎月郵便貯金していたという。
弟が保管してあった郵便貯金通帳を見ると、昭和32年7月から35年8月まで毎月ではないが100円づつの入金がある。
配達料は私の時代と同じく200円から300円だったというから、そのうち100円を貯金していたことになる。。
通帳の記録によると35年8月が最後になっている。
この頃には私は家にいる時間が極端に少なくなっていたため、詳しく知らないが、この後、更に下の弟の勉が新聞配達を引き継いだそうだ。
勉はその時、小学5年生で配達部数は30部程度になっていたという。
隣のヒトシ(人)ちゃん、勉の一級上であるが、勉と親しくしていて、配達に一緒に行ったりしていたようだ。
最近、猿橋アーカイブスの事で逢う機会があり、話を聞いたところ、勉が修学旅行などの時はピンチヒッターをつとめたこともあるらしい。ちゃんとバイト代を払っていたのだろうか?