テレビのこと
    (ここに掲載している画像は実際のものではなくイメージです。)


 NHKがテレビの本放送を始めたのは昭和28年(1953)2月1日だったが、テレビが各家庭に広く普及したのはずっと後のことである。
 NHKにつづいて日本テレビをはじめ、民放も相次いで参入した。
 甲府にもNHK2波と山梨放送(YBS)が開局したが、その電波は山間地の猿橋まで届かなかったため、天皇山にアンテナを設置して町中の加入者にケーブルで配信していた。
 当時はテレビ自体の値段も高く、又、このケーブル設置負担金も加入者が少なかったため、テレビを設置し、視聴するにはかなり高額の出費を強いられた。
 従って昭和30年前後でテレビを設置している家は少なかった。

 猿橋で一番早い時期にテレビを設置したのは、我々子供が知るかぎりでは小柳町の飯高さんだった。
 当時力道山のプロレス番組が爆発的な人気を博した。 
 昭和29年の春、力道山・木村政彦とシャープ兄弟の試合が何回か行われたが、戦勝国アメリカ代表(実はカナダ人だった)のシャープ兄弟に力道山の空手チョップが炸裂するシーンに国民は熱中した。
 この試合を飯高さんのテレビで観られる、という事で町の子供達が飯高さんの家に殺到した。
 門から右へ入ると庭があり、テレビのある部屋は開放されていた。
 たくさんの子供が集まっているから座敷には上がれない。庭からかなり遠い所にある14インチの場面を観て皆で歓声を上げたものだ。

 都会では街頭のテルビの前に何十、何百人もの人が集まって、力道山の空手チョップに酔いしれた。

  

 家の近くで早い時期にテレビを設置したのは隣り(大家)の手塚さんだった。
 本来は家族が見やすいように居間に設置するはずであるが、手塚家では近所の子供達が集まって来ても見やすいように、玄関広間に設置していた。
 当然、近所の子供達があつまり、写真のように一種の社交場のような状態だったが、座敷だったので座ったり、寝そべって見たものだ。

 

 我家は廊下を伝って簡単にテレビのある所へ行けたので、近所のこども達に比べて圧倒的に有利で。その分頻度も高かっただろう。
 この当時、テレビを見せてもらった番組で私の印象に残っているのは、「しゃぼん玉ホリデイ」、「七人の刑事」、それにNHKの「ジェスチャー」、「私の秘密」である。
 「ジュスチャー」は金語楼、水之江滝子などのとのけた演技で大いに笑える番組だったし、「私の秘密」は好奇心をくすぐる面白い番組だった。
 「しゃぼん玉ホリデイ」、「七人の刑事」のエンディングは今も印象に残っている。
  

  

 居間でなく、玄関座敷にテレビを置いて、我々が見やすいようにしてくれた手塚家のおばさん久子さんに改めて御礼をいいたい。
 そういえば、手塚家の娘さん、あやちゃんとこずえちゃん、あまりテレビ前に来て見ていた印象がない。 我々に遠慮していたのであろうか。