厄王院のこと
小学校の頃は、どこに行くにも歩いて行った。
都留に当時全盛の立教大学野球部が来た時も、鳥沢の親戚に行く時も、いつも歩いて行った。バスに乗った記憶があまりない。
幡野で火事があった時も走っていった。
その頃、どこかへ出かけると、決まって弟の進がついて来た。私が小学校高学年の頃、弟はまだ小学校に入ったかどうかぐらいの年。
歩くスピード、走るスピードがまったく違っていたから、弟は手をつなごうとする、それをはねのけると、ズボンのベルトに手をかけ、ぶらさがる。
早く目的地へ着きたいとあせるが、結局は弟のペースで行かざるを得ない。 往生したものだ。そんな弟も長じて私より背丈が高くなった。
昭和30年頃、駒橋の厄王院にに当時現役の横綱鏡里が来た。節分の豆まきだった思う。
どこから聞いた情報だったのか、例によって走って行った。勿論弟も附いて来る。
猿橋駅を超え、殿上の大きなカーブの所から、旧甲州街道に入り確か「横尾」という名前の集落を越える。 発電所の前を過ぎると目的地の厄王院はすぐ近くだ。
旧甲州街道が上り坂になって、国道20号線に合流する手間に厄王院はあった。
この鏡里を見に行った以外は訪れたことがない所だ。
神社なのか寺院なのかもわからず、ただ「やこうさん」と呼んでいたが、正式名称は大本山厄王山厄王王院といい、平安時代に開基された由緒ある山岳信仰の神社だという。
下は厄王院の入仏式の時の写真だという。(「目で見る郡内の100年」より)昭和初期の写真か。
手前が旧甲州街道。比較的広い神社前広場は現在も同じだが、白い木製と思われる玉垣が石造りの玉垣に変っている。
現在の厄王院の広場 |
鏡里は昭和28年に横綱に昇進し、史上稀な5横綱(照國、羽黒山、東富士、千代の山、鏡里)時代を築いた。 幕内優勝は4回、昭和33年に引退している。 「豆まき」は節分という限られた日の、限られた時間に行われるから、そんなに多くの場所を掛け持ちすることはできない。 「大本山・・・」といっても田舎の小さな神社の節分豆まきに、比較的地味な横綱ではあったが、現役の横綱が来たのは、どんな背景があっての事だろう、今でも疑問に思う。 |
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ファンに囲まれる鏡里。(手塚人氏提供) 厄王院での写真とされるが、周囲の人達の服装から「豆まき」の時ではないようだ。 背景に時津風部屋の幕が見える。 |