昭和大火 

 
昭和15年5月19日の夜更、猿橋の中心街に大火が襲った。
 翌々日の山梨日々新聞がこの様子を下のように報じている。



 約85年前の新聞で。更にコピーのコピーであるため、鮮明でない。拡大して判読するとおおよそ次のように書いてある。(■は潰れていて判読できない字)

猿橋々畔に大火 77戸全半焼 昨暁・中央線も停まる
(猿橋電話)19日午後11時30分頃、北都留郡猿橋町瀬戸物
渡辺太郎(64)方から火、風はなかったが深夜のことと、水利不便のため、猿橋郵便局を始め、東方国道沿いに燃え広がり、同町目抜きの建物を焼き尽し、猿橋畔に至る間を焼け野原と化したが、全焼73戸、半焼3戸、破壊1戸、合計77戸を烏有に帰して、20日午前5時頃全く鎮火した。
 発火原因につき、猿橋書で取調べの結果、火元渡辺方長女きみ子さん(2
)が、同夜10時頃、病人に与ふべく山羊の乳を沸かした火の不始末と判明したが、損害は10万円を突破するものとされている。
 焼失した主なる建物は、猿橋郵便局、都留電灯株式会社、荒物問屋三木亀十郎、乾物商高橋卯太郎、松本和三郎
両商店、大黒屋旅館等で、余りにも火廻りが早かったため、何れも丸焼けの状態で、郵便局、都留電灯会社等は重要書類その他、一物をも取り出すなく、見ながらに焼失せしめた。
 この火災
火元渡辺方の孫渡辺幸男君(1)は逃げ場を失って無惨にも焼死体となって発見され、また警防団を督励して■した猿橋署三井武彦巡査は顔面に大火傷を負い、この外3名負傷した。
 火災現場が中央線に接近していたため、送電線、枕木等を焼き、列車は不通となり、20日午前0時50分の下り列車は鳥沢駅から折返し運転したが、同5時半ようやく復旧した。
奇矯辛くも残る 急施町会で救援決定
 劫火に見舞われた猿橋町は、本年度紀元2600年を記念するため、3万円を計上して奇橋猿橋の掛替え工事をすることになっていたのも、
覚束ない結果となり、僅かに橋の焼けなかったことが不幸中の幸であった。
 猿橋町では、20日午後1時から急遽町会を開き、罹災者(460名)の救護に関し協議した結果、役場の東方へバラックを
り一時収容することとなったが 余燼未だ消えぬ現場に立ち、色を失っている罹災者の姿には何れも同情している。
小学校休業
 猿橋小学校では、昨暁の大火に鑑み、罹災者収容その他のため、20日は休校した。
現金1万円、空(むな)しや灰燼
 20日午後1時から招集された猿橋町
急施町会は、救護対策をあげて町当局に一任することとなり、各町議は八方手分けして罹災家族調査を開始したが、罹災家族は460戸と推定されるが、このうち出征軍人家族は帰還者も合わせて正11戸である。
 火災保険
は総額12,3万円加入している模様で、最も被害甚大なのは荒物商三木亀十郎氏方で総額10万円といわれ、1万円近い現金を灰にしてしまったといわれている。
 都留電灯では、元役場跡へ事務所を置き、また猿橋局は谷村区裁判所出張所、第十銀行の空地へ一時移転し、前夜来一睡もしない事務員工夫等は輻輳する電信電話その他の事務に忙殺されながら、目覚しい活動を続けている。
警察部長急行
 猿橋町の大火に、久山警察部長は20日、窪田書記室主任を伴って火災現場を視察した。
焼けた郵便局は街頭で開業
 ◇起き上がる罹災者だち
    (写真)  
全焼家屋
 望月敏子、石渡■
、田中■四郎、小畑■造、奈良寅吉、三木亀十郎、同別宅、高橋正、安戸伊之助、仁科義男、奈良きみ、高橋卯太郎、 渡辺太郎、小池まつの、山下千代、佐藤義久、森駒雄、藤本慶太郎、猿橋郵便局(局長奥秋角太郎)、幡野昌之、雨宮亘、志村元作、鈴木たま、 藤本正作、保坂要■、■■社(■■■)、鈴木永一郎、■田雄、朴仁■、木林兵治、大野久信、大黒屋自動車株式会社(管理者佐藤貞)、藤原現實、 都留電灯会社(社長奈良重威)、橋本金衛、大黒屋旅館(佐藤啓■)、小野和夫、奈良熊吉、同武治、藤本英治、鈴木芳太郎、西室茂冨、松本茂一郎、 佐藤廣一、樋口忠太郎、稲本喜造、田中恒太郎、唐沢有■、中村孝行、鈴木恒雄、奈良俊雄。佐藤長明、三浦誠、鈴木真平、水島一次郎、同氏所有非住家一戸、 川村倉之助、小坂徳密、安藤延太郎、立花政義、幡野峰松、林進治、安藤松太郎、井上庄■、椙本實 安藤富太郎、高山松之助、幡野信義、管沼幹雄、 高橋卯太郎倉庫、不動尊小屋、消防会館、青年会館、消防会館番人小屋、松本屋(非住家)、大黒屋自動車従業員宿舎、消防小屋第一部、同詰所、外倉庫七棟      (以上全焼73世帯)
半焼
 仁科政■、山梨安利、安藤将雄 (以上3戸)

破壊
 富田なつ (1戸)
罹災者を救え 義金募集 猿橋・能泉の両町村へ贈る
 西山梨郡能泉村に18日火災起り、猛火は折柄の強風に煽られて遂に上川窪20戸、下川窪10戸を全焼したが、20日払暁、今度は北都留郡猿橋町が突如火に見舞われ、会社商店、民家70余が一瞬にして烏有に帰し、人畜にも被害を蒙り、惨状目に余るものあり、罹災者の身上、誠に同情に堪えないものがある。
 地元町村役場、県社会課その他関係方面では救済と復興に臨し、早くも活動を開始しているが、本社に於ても率先して、これが救援運動を起すべく、今回義援金を一般県民から募集する事になった。
 70万県民諸賢の御協力を熱望する次第であります。
    要旨
 一、義援金は一口金一円以上とすること、但し二人以上を以て一口とするも差支なきこと
 一、閉切期日は6月末迄とす
 一、義援金の処分は本社に一任せられ度きこと
 一、義援金拠出者に対しては日日新聞紙上に金額・氏名を掲載して領収書に代ふるものとす、但し正午以降到着分は翌々日付の紙上に掲載す。
早くも義園金 続々と持ち込む
 
猿橋大火に対する貴く美しい義園金は、早くも続々として持込まれ、すでに
    興亜化学工業株式会社  70円
    郡木炭組合       木炭100俵
    郡仏教会        110円
    谷村町■憲一郎氏   30円
 等が早くも贈られ、笠井代議士は■々来猿し、10円を贈呈する等、一般から同情が集まっている。
自宅延焼、他所に 防火に挺身 警察官、警防団員間に美談
 出火と同時に駈け附け、消火の指揮に当たった猿橋署巡査の住宅も類焼、三井武彦巡査は顔に火傷を負った。
 また消火に努めた警防団員水島喜一、伊藤泰一、白須正明君は顔に火傷


火災が収った翌日朝の写真
  
  AIIで画像修正してみると、煙が残っているのは郵便局の焼け跡あたり、後方に焼け残っているのが水明楼、中宿の建物と思われる。
  水明楼、中宿は町中の火災による上昇気流に、背後の川原からの強風が吹き込み、延焼を免れたと考えられる。
  
  


 猿橋の昭和前期の地図を作成している仁科喬夫氏は、この猿橋大火の新聞記事と作成中の地図をもとに延焼範囲を地図上にプロットする作業を続けている。

 3月21日の猿橋史談会例会で、その調査状況の報告があった。
 

 報告によれば、延焼した家屋・住人の特定はほぼ完了しており、下記の一覧表の如くであるという。
 
下部が途切れている。要再コピー
        (上の表をクリックすると拡大した表を見ることができます。)

 これらの延焼者を一戸毎に当時の町並図上にプロットすると、下記のようになり、黒線で囲んだ区域が延焼範囲となる。
 松葉地区へも延焼して横町区域はほぼ全焼となった。
 鉄道線路で遮られていた松葉地区への延焼したのは「飛火」によるものだろう。

 仲町は約半分が延焼したが、安藤(床屋)、仁科(薬局)、山梨(ガラス屋)は半焼となり、富田(須賀屋)は破壊消防で建物は壊された。

 

 この火災で類焼した商店、旅館、料亭などのうち、同じ場所で再開できたところは半分以下で、火災により猿橋の町並は一変した。
 
 
参考  作成中の「戦前の猿橋」の主要部