猿橋出身で戦時中沖縄県知事を勤めた 泉守紀
経歴によれば明治39年(1898)2月11日 北都留郡大原村の教育者泉文作の三男として生れた、とある。
旧制第七高等学校(鹿児島)を経て、1923年、東京帝国大学法学部を卒業、内務省に入省し、エリート官僚の道を歩む。
青森県庁への赴任を皮切りに、全国各地の警察官僚として勤務の後、昭和18年(1943)7月、北海道庁内政部長の時に沖縄県知事の辞令を受け、
7月22日に沖縄に赴任した。
父の文作は「教育者」とあるから、おそらく地元で教師をしていたのであろう。
兄の次男至剛は、猿橋小学校を卒業後、甲府の中学に通ったという。まだ都留中学がなかった時代である。
その後東京帝国大学に進み、大蔵省に入省、造幣局長まで勤めた。
一家は後に猿橋から東京に移ったという。 一家が猿橋のどこに住んでいたか、いつまで住んでいたか、現在のところ全く不明である。
守紀は沖縄県知事の職を1年半勤めた後、香川県知事に転出し、終戦を迎えている。
昭和59年(1984)10月21日、埼玉の自宅で死去。
」 空路沖縄到着を伝える沖縄新報 守紀の生涯を描いた「汚名}
