村上正則
猿橋中出身で有名な野球選手がいた。
日本人初のメジャーリーガーとなったあの村上雅則である。
村上は昭和19年(1944)、猿橋の近郊、下和田に生まれた。父親は猿橋郵便局長をつとめた地元の有士。
猿橋郵便局は私が子供時代を過ごした家のすぐ前にあった。
また、局長の妹は我家の隣り、大家でもあった手塚家(水明楼)の奥さん。だから隣家の奥さんの甥である。
猿橋中卒業後、法制二高に進み、2年の時、控え投手として春の選抜甲子園に出場している。 準決勝の対平安戦でリリーフとして登板、決勝では高松商を破って優勝した。 前年の夏にも優勝しているので春夏連続優勝である。 この活躍に目をつけた当時の南海ホークスの監督・鶴岡一人が「うちに入ったらアメリカへ行かせる」と入団を誘い、高校3年の秋に契約、翌年春に入団。 2年目に約束通りアメリカに派遣され、サンフランシスコ・ジャイアンツの1Aフレズノに野球留学した。 その年の秋、メジャーのベンチ枠25人が40人に増える事になり、メジャーのジャイアンツに上がるチャンスが到来した。 9月1日、単身ニューヨークに向かった村上は、その日のゲームで、突然8回からのリリーフ登板を命ぜられ、何とかゼロ点で抑えた。 翌日の新聞には「アジア人初めて」「日本人初のメジャーリーガー」などと報じられ、一躍時の人となった。 しかし日本では東京オリンピック開催で、このニュースはあまり大きく取上げられなかったという。 その後2年間はジャイアンツでプレイし5勝1敗、昭和41年(1966)からは南海に戻り、後に阪神、日本ハムに移籍して昭和52年(1982)まで現役を続け、103勝88敗、防御率3.65の記録を残している。 村上 猿橋中へ凱旋 |
村上選手は母校猿橋中学校に野球のバックネットを寄贈しているという。 そのネットは現在は取り壊されているが、昭和39年度の卒業写真に残っている。