猿橋を懐かしむ人の手紙

 猿橋出身で猿橋から遠く離れて住む人が、猿橋のことを懐かしむ手紙
   
 長野県下高井郡中野町に住む下平秀子から吉川行雄への返信
  秀子は猿橋の出身で吉川家の親戚、行雄より10才程年長、宗教家(メゾジスト)に嫁いで信州中野に住んでいる。
  以前、遠野にも居たようだ。
  実家(旧姓)はわからない。吉川家の親戚で猿橋の町中に住んでいた人。
  
  手紙は昭和8年8月14日付

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志ばらくで御座いましたこと、ほんとにおなつかしうございますねえ
お別れ申上げてからもう何年になりませうか、彼の頃あなたは十三か十四位でしたね、保ちゃんがうちの孝ちゃんと同じどLでせう、雄二郎が今年は二十六でせう、あなたは雄二より一つ上でしたね
するとあなたは今年二十七位におなんなさるですか

私はねあなたのお手紙を拝見し又そのお作を拝見してねほんとにびつくりしちやったんですよ
まあ行雄さんがもう悠んなに大きくなって・・・、そしてこのお手紙、この雑誌、こふいふものをおつくりになって・・・
まあ私のおどろき、そしてそのよろこび・・・どう申上げてよいでせう
あなたがこんなに大きくなって居らつしやるとは思はなかつたんですの

おかしな話ですがそれは指を折ってかぞへてゆけば成程そうなりますが私は全くびつくりして大喜びによろこんで了ひましたの
お作の中にお母さんが良い理解を有ってなすつておられたやうな御様子ですね、それは何んとうれしいことでございましたでせうね
御送り下さいました三いろの雑誌それぞれ拝見して居ります
あなたの御近況を想像することが出来てたいへん心嬉しく思ってゐます

あなたはお体のお位合がお悪くてゐらつしたでせう、その後どんなお様子でゐらつしやるでせうか
そうしたことも一寸も伺ふ折がなくて時が過ぎて了ひましたが、そふした烈しい気もちは、お作の上には少しも見えなくて、明るくほがらかで、そして細かい所にやさしく情のうごいてゆくさまなど、ほんとにうれしいことで御座いました、
お母様の亡きのちはお父様が又良き理解者でゐらっしゃいませう、同好の良いお友達が揃ってゐらつしやることもうれしいことでございます

あなたは小さい時からおとなしいお子でしたよ、今にして想へば動に対する静的つていつたやうな感じでしたね、おとなしいから静的つていふのとは別ですけど、運動なんかに余り興味がおありにならなくて
「うちの行雄は本のすきな子だよ、とても本がすきだね・・・・」
って、お亡くなりになった母様、私のすきなおばさんはよく仰有ってましたつけ、
その頃あなた足の位合がお悪くなり初めるでせう、それやこれやで幸ひ、お家には本はたくさん有りますし・・・
あなたの性格そして興味がお有りになる所から遂と遂と、しだんしだんに生成してこられたあなた、非常に内面的な感じのするゆきをさん!、私のこんな想像は違ひましたか

お父様もお丈夫でゐらっしゃいます、御無さたで居ります、よろしくと御伝へ下さいませ

英ちゃんも大きくなられたでせう、どうしてゐらっしゃいますか、お家のおてつだひですか、それともどちらか学校へゐらつしてますか、そして尚春さんは、そしてその下に妹さん二人おありでしたねへ、あの頃まだ五つ六つ位で、赤ちゃんをよくおんぶしては、うちの静代と遊んでゐましたつけ、今はもうきれいな方になられてませうね

保ちゃんが金沢へお嫁にゆかれたこと、おばさんが急にお亡くなりになられたこと、新らしいおばさんがおゐでになられたこと、その新らしいお母さんがよく行雄さんのお世話をなさることなどを母や妹からは折々風のたよりのやうに伺って居りました

なつかしいふる里、そこにすむ人たちのたれかれの顔が浮んでまゐります、被れから猿橋もずいぶん変ったでせうね、
一昨年でしたか、東京の朝日新聞の飛行機が中央線を中心にして、もみぢ狩りを空から試みた事あつたでせう、その時、猿はしの町を空からうつした写真が新聞に出てゐました、余りのなつかしさに切りとって今も持って居ります
猿橋の町も変り、人もかはりましたでせうけど、あのはなへつかへるやうなこんぴらやまや、お天神山、ももくら山、扇山、円山、なしの心月寺や、そのわきのおわきばやし、それから大きな音を上げて流れる桂川、それから私の家の裏の大きなけやきの木、彼ふいふものは今も昔も変りなく、なつかしい姿をたたへて居ることでせうね
いつか東京へゆく折が与へられましたら、中央線を通ってみたいと思って居ります、そしてそのときは、町の方々にお会ひしたいと思って居ます、


あなた達ずんずん大きくなってゆかれるんですもの、私なんかがおばあさんになるの当然ですわね、途中であつてもわからないでせう、こんなきはめて平凡な小さいやうな事が、今更のやぅに新しく思はれます、
うちの長男がもう十二になりますもの

ゆきを様、私は近頃こんなに長い手紙を書いたことないんですのに思はず長くなって了ひましたよ、余りのおなつかしさ、お聞きしたいこといっぱいなの、次から次へ順もなくねえ・・・おはんで下さいまし

これからまだまだお暑い日がつゞきませう、夏は暑い方がいいでせう、北信は猿橋辺りとよく気候が似てゐるやうな感じがします、山や野に小さい時の思ひ出の花が咲きみだれて居りますから、遠野に居ります頃は、野の花が全然違って居りましたから、ほんとに他国に在る想ひがしましたけれど、こちらへ来ましてふる里に似たものを見ることはほんとにうれしい事で御座いました

暑い夏をおすこやかにおくって、又良き新秋をむかへて下さいまし、志なのゝ春はおそけれど、秋立つことはいとはやしって歌がございます、
朝夕はもう秋の風がおとづれてまゐります
御一家の上、神様の聖手の至らんこと祈って居ります
                      秀子
 行雄様

もう一通、吉川家に残っていたという。 こちらは封筒がないため、年月日がわからないが、前の手紙の2年ほど前、昭和6年と推察できるとの事である。

行雄さん!
先日は御細々となつかしいお便りを有り可度う御座いました
猿橋のあの町と、そしてそこに住んでおられる人たちを思ひ浮べて何か不思議な志つとりした静かなものが感じられました、ほんとにお親切によくお書き下さいましたのね、有り可度う御座いました
何かかふ、島崎藤村さんのお作でも見るやうな感じですね
彼の町の昔のお友達や、おぢいさんのお話・・・、静かに拝見してだんだんに移り変ってゆく世のさまを偲びしのび致しました

先日は東京から英雄さんがお便りして下さいましたよ、
よくお元気そうに、もう八十何日で家へかへれるつてよろこんでーー、 家へかへったら一生懸命に働くつもりだなんて仰有ってました、日曜毎に戸塚の家へ居らっしゃいますってね
この三月、下平が上京しまして、戸塚の家へまゐって居ります時、丁度その日英雄さんもゐらつしてましたそうです
英雄さんこちらへゐらっしゃいつて母が志きりに申したんだそうですけど、まがわるがつて出てこられないで、遠くにはなれてゐらつしやるんですつて

英雄さんの軍服をきて、まがわるがつて居る様子が見えるやうですね、あなたと英雄さんは小さい時から仲のよい兄弟でしたよ
あなたと保ちやんでけんかを始めると、きつと英雄さんが仲にはいって、いえ仲へはいるといふより、兄さんの味方になって、自分が保ちゃんの相手になりましたっけ
今でもきつとその気持は同じでせうと思はれますね、今ぢやもうあなたも保ちゃんも、昔のやうにとっくんでやつたり、
にらめっこしたり、まあ一切けんかなんかしないでせう

大きくなると、みんな仲よくなれて嬉しうございます、私のとこでもよくけんかしたでせう、覚えてゐらつしやるでせう、
多勢ですからね、
でもみんなみんあ、それはいはゆる兄弟げんかで、うれしいことの一つ一つですね、
お互ひに気がとけて遠慮のない所からなんですから

あなたはペンを持ちなれてゐられるから、描写がなかなかきれいです
世が変り、人がかわつてゆく中に、昔ながらのものさびた自然のたゞずまひにふれることは、殊に悠ふした時代に・・・
今の世に・・・許されたつゝましい喜びでせうと想ひます

あなたのきれいなペン先きから、あの町の南の方の山、北の方の山々やそれから夜更けてから水音のます桂川など今更ながらく胸にうかび上ってまゐりました
彼の町の自然の姿はほんとに私にはなつかしい・・、美の方面から見ましたら、さして美くしい所とは思へませんが・・・・・・。
美くしいところではありませんけれど、なつかしい所です
悲しみの日に、喜びの日に、涙と共に山に向ひましたの、夕ぐれ。よく桂川のほとりでぢつと川音にきゝ入って、何にかもの足りた気持ちになったりしたもので御座いました


あなたは私と十位お年が違ふやうですね、でも何んだかお話が合ふやうな気がします、静かな意味で・・・
いつか許されて志んみりとした日を有ちたいもので御座いますね

尾花もほが出て、すつかり秋になりました、
御父様お母様へよろしく、
御体をお大切になさつて下さいまし、今日はこれで失礼致します

夜となく昼となく岩かげのこほろぎが秋の歌をつヾけて居ります
着々と秋の作品はおすゝみでございませうね、折角おはげみなすって下さいまし
ではまた                      
                      秀子
  行雄さま