梅沢薬局 このページは大野博己さんの話をもとに構成しました。


 猿橋の橋畔近くに古くからある梅沢薬局は、もともと字梅沢(心月寺近辺の旧字名)に住んでいた大野家が、明治年間に猿橋の表通りに開業したのが始まりという。

 

 大野家は平家の落ち武者の後裔という言い伝えがあるが、特に確証はなく、僅かにその「証」とされていた刀も第二次世界大戦の折に供出された。
 この家系は当時女系が続いていたため、葛野から婿入りした武右ェ門の時、「梅沢」の屋号で薬局を開業した。明治中期と考えられる。

 下の明治年間の地図にある「梅沢」大野亀太郎は、その武右ェ門の子(後継者)と思われる。

明治時代の猿橋 表通リ

明治19年に発刊された「甲州道中 各家商業便覧」には、大黒屋・小松屋など共に下のような広告を出ている。 広告に見る猿橋の商人参照
 

 明治後期、梅沢薬局の当主だった大野亀太郎は明治41年から45年まで約5年間、大原村村長(第13代)をつとめている。猿橋が郡役所、警察署など官公署を要し北都留の中心として多くの人が集まっていた頃である。

 亀太郎には4人の子があり、長男が梅沢薬局を継いだが、「梅沢薬局」という名を嫌い、一時「大野薬局」に改名した。 しかし、後にまた「梅沢薬局」に戻したという。

 下の大正時代の町並図で「大野薬局」とあるのは、こうした理由があった。

大正時代の町並図 一部


 亀太郎の4男大野四郎は梅沢写真館を開業した。同じ建物内に奥方が「梅沢美容室」を開き、両方とも盛業だった。
 梅沢写真館は小学校、中学校の行事写真や卒業写真、結婚式、成人式などで世話になった町民も多いだろう。

現在の梅薬局  google mapより