五ヶ堰 幕末の水利権争い

 
五ヶ堰についてはこちらを参照

 五ヶ堰用水は昭和の時代に下流の猿橋で私が見た印象としては、水田を配分を潤すほどの水量ではなく、渇水期には上流で使ってしまって殿上や猿橋には流れて来ない事もあっただろう。
 上流側の田之倉村、大月村、駒橋村と下流側の殿上村、猿橋村の間に水の量について争いがあった事は想像に難くない。

 おそらく何回も争論があっただろうが、明和9年(1772)の争論の記録が残っている。(市史207)
 明和9年といえば、江戸で「明和の大火」と呼ばれる大火事があった年、「めいわ九」(迷惑)ということで、11月に「安永」と改元されている。
 
 下流側から決められた水田(田)を潤すだけの水量が流れて来ないという訴えがあった。上流側も流量不足を認めてはいるが、下流側に十分送るための分流も難しい、という事で、時間を分けて貴重な水流を使う事になった。
 賢いやりかたであった。
 その決められた時間割は次の如くである。
 これによると、灌漑用水は田に応じて取水の時間を決める。 猿橋は朝4時から9時までの5時間、上流の田之倉は午後に2回、2時間づつとなっている。
 又、飲用水としては時間割ではなく、取水口の大きさと口数で制限している。 下流の殿上、猿橋では飲用水として用いていない。下流なので水質に問題があったのか。

田畑灌漑用水 飲用水
利用時間 人別 取水口巾 口数
猿橋村  43石余
午前4時〜9時 5時間
殿上村  85石余
    合計 128石余
大月村 153石余 午前9時〜12時
午後10時〜午前2時
3時間
4時間
535 1尺8寸7分  
駒橋村 250石余 401 1尺4寸    
    合計 403石余
田之倉村 297石余 午後2時〜4時
午後6時〜8時
2時間
2時間
730 3尺7寸  

 この時間割は厳密に行われ、取水口の寸法などは村役人立合で点検するなど、子細にわたって取り決めている。
 
    五ヶ堰水利権争論、運用規則 (大月市史)


明治の水利組合

明治36年には山梨県の認可を受けて、水利組合を組織し、下記のような規約を設けた。

五ヶ堰水利組合 規約 (一部)