中世の猿橋

 猿橋の名は南都留郡大嵐村の蓮華寺四天王像の銘文に
    「嘉禄二年九月、仏所加賀守、猿橋の住人なり」
とあるので、嘉禄2年(1226年 鎌倉時代初期)には猿橋の地になんらかの集落があったものと考えらる。(甲斐国誌 古蹟部十六)
 
 文明18年(1487年)正月、京の聖護院門跡道興准后が小仏峠を越えて甲斐に入り、天台宗の支配下にあった岩殿山円通寺などを巡遊した際、猿橋について次のように「廻国雑記」に記している。

    

戦国時代
 戦国時代、この地方は谷村城および岩殿城を本拠とした小山田氏の支配下にあった。

 猿橋の地は甲州と関東平野を結ぶ街道筋にあったため、武田軍とその配下の小山田氏の軍勢が陣を張り、ここから出陣している。妙法寺記に

永正十七庚辰(中略)此年ノ三月、府中ニテ以上意万部法華経ヨマセ玉フ、又当郡猿橋三月中二小山田殿引立テカケ玉フ也

とある。
 戦国初期の郡内領主小山田越中守信有が永正17年(1520年)に猿橋を架けた記事である。現在の猿橋よりやや上流、新猿橋の下の通称「廻り淵(まわりぶち)」の低い岩の上に架けたものと考えられる。
 同じ『妙法寺記』の大永4年(1524)の項には、この年正月、小田原の北条氏綱が扇谷上杉氏の居城江戸城を攻め、城主上杉朝興は河越城に逃れ、武田信虎に救援を求めたという記事がある。信虎は1万8千の兵を率いて猿橋に布陣し、そこを拠点として武蔵の岩槻城などを攻めた。

 

大永四甲申、此年正月ヨリ陣立、初而二月十一日、国中勢一万八千人立テ、猿橋御陣二而日々二御働、奥三方へ働、箭軍アリ、此時分乗(憲)房ハ八十里御陣寄ト承リ申候。此年万事共有之。小猿橋ト云処二而、度々ノ合戦アリ。

 吉野の小猿橋もその名前が登場しており、すくなくとも戦国初期には同じような工法の橋が二つ存在していたことが認められる。享禄3年(1530年)にも、武田信虎は関東の上杉氏救援のため、小山田越中守信有を猿橋に出陣させた。
 信有は郡内の一家国人を従えて出陣したが、4月、上野原の八坪坂で北条軍と戦い敗れた。

享禄三庚寅(中略)此年正月七日小山田越中守信有同国中の一家国人猿橋に御陣なされ候
(後略)

 妙法寺記の天文2年(1533)の条に「この年猿橋焼申候」とある。おそらく戦国の軍事上の危機に直面して、小山田氏が橋を焼き落としたのであろう。
 それから七年目の同じ記録に「天文九庚予一中略)此年霜月八日、猿構掛り申候」とあり、ようやく橋が復興した事も伝えている。

 猿橋は桂川の右岸にあるがこの近辺では唯一、両岸が接近し架橋により渡河が出来る地形であったため、江戸や相州津久井方面と甲府、谷村方面を結ぶ地点となり、更に葛野川沿いに秩父方面にも達するなど重要な場所となった。そのため、軍事上はもとより、交通、運輸上も重要な地となった。

 天文から元亀の時代(1570年頃)、猿橋郷の全部または一部が東山梨郡矢坪の永昌院の寺領だったようだ。
 永昌院は武田信玄の曾祖父信昌を開基とし、永正元年(1504)に開創された寺院で、永正の「永」と信昌の「昌」をとった名であろう。
 猿橋の百姓から永昌院への年貢が滞っていることについて、天文22年(1553)11月8日に、武田信玄から小山田信有に皆済させるよう命じたという文書が永昌院に残っている。
 しかし、年貢の取り立ては順調でなかったようで、元亀3年(1572年)8月20日には、永昌院の住職から小山田信有に「猿橋の百姓が年貢を納めないので奉行を派遣して検分して欲しい」と要望書を送っている。  「猿橋の永昌院領」(大月市史)
 猿橋の農民達は領主たる永昌院に年貢を納める立場にあるが、永昌院が直接年貢を集めるのではなく、郡内を領有していた小山田家に領地の管理と年貢徴収を委託していたようだ。 
 
  市史131

 上記は天文20年11月8日付、武田信玄の署名と花押がある古文書で、永昌院にあて、貴寺の領地(猿橋など)からの年貢で難渋している事を承知している。小山田家に命じて善処する旨、申し送っている。
   小山田に命じて弥七郎にしv 方記事eishouinてんp
 
 このような文書を見ると、武田家が治める領地内で、郡内領主である小山田家の管轄地域の猿橋が、実際には遠く離れた寺院の所領だったという、戦国時代の複雑な領地関係がわかる。

 信玄の死後、戦国最強ともうたわれた武田軍は次第に衰退し、織田・徳川軍の侵攻に追われて、岩殿城に逃込もうと笹子峠まで来たところ、岩殿領主小山田軍の裏切りで天目山に落ち行き、武田家が滅亡した経緯は良く知られている。
 
 武田氏が滅亡すると甲斐は徳川家康の支配下に入り、谷村に徳川譜代の鳥居土佐守成次が郡内領主として入る。