■明治天皇行幸
明治13年(1870)6月、明治天皇は文武百官を従えて山梨県に巡行の旅に出た。
明治13年の御巡幸(郡誌1063)
北都留郡誌によれば、一行は6月16日、京城(皇居)を出発、17日、山梨県に入った。
甲府から県令藤村他が出迎え、当日は上野原の加藤景明宅を行在所として宿泊した。
加藤景明は旧幕時代、上野原宿の本陣を勤めたという。
18日、午前7時に出発、鶴川、野田尻宿を通過、犬目宿の笹屋で休憩、山谷峠を越え、11時40分、鳥沢宿しま屋で昼食、12時半出発した。
下の錦絵はその威容を伝えるもので、鳥沢から猿橋に向かう途中で、左側に桂川、左上奥に猿橋らしい橋が小さく描かれている。
御巡幸錦絵猿橋遠景之図
この絵では桂川の川原のすぐ近く街道が通っているように見えるが、実際、宮谷から猿橋にかけては、旧甲州街道は今の国道20号よりはるか下の桂川に近いところを通っていたようだ。
しかし、ここから猿橋は見えない。 東町の甲州街道 参照
一行は天皇が乗る馬車「風輦」の前後に伏見宮などの皇族、太政大臣三條実美、参議伊藤博文などが供奉し、総勢400人という大行列だったという。
猿橋では橋畔にあった猿橋警察署で小休をとった。 今も猿橋橋畔に明治天皇御召換所址という石碑が立っている。
「召換」は着替えではなく、馬車から板輿に、あるいは板輿から馬車に乗り換える場所のこと。
上り下りのはげしい所は板輿で、平坦な所は馬車に乗って移動したようだ。
猿橋では板輿から馬車に乗り換えた。
警察署で小休の後、猿橋を遊覧したという。お供の者が書き残した旅行記(みとものかず)では猿橋の絶景を「筆にも詞にも及ぶべきにあらず」と記している。
みとものかず 全文(国文学研究資料館) 猿橋関係抜粋
又、児玉幸多氏が、明治天皇の御供をした久米邦武の「東海東山巡幸日記」から抄録した明治天皇行幸紀(2)抜粋によれば、久米が天皇に猿橋の構造の特異性について説明したとある。
明治天皇行幸紀 抜粋
明治天皇行幸の時の猿橋全景
御召換所址石碑
明治天皇巡幸の乗物
平坦な道は(A)馬車、登り下りの傾斜地は(B)板輿、更に傾斜がきつい山道では(C)山駕籠が用いられた。
御召換所となった猿橋警察署の中では、鈴木芳太郎、奈良友巳両名が給仕として天皇に奉仕した。
これは民間の12,3才から16,7才までの男子で、品行方正、容貌端麗のものを選んだという。
下は「明治天皇御巡行紀」に掲載されている御巡行沿道略図。
・猿橋警察署 署長警部1名人、巡査8名
・戸数127戸、人員603人
・猿橋学校 生徒102人 猿橋小学校の前身
などの記事が見える。
猿橋を出発した一行は駒橋、大月を通過、花咲宿星野家で休憩した。
花咲学校前で少女の機織作業を展覧、初狩宿本陣小林宅で小休、同日夕暮時に黒野田宿に入り、天野氏宅を行在所として宿泊している。
天野宅も旧幕時代、本陣をつとめた家柄である。
19日、黒野田を発し、笹子峠を越えて甲府方面へ向かった。
明治天皇行幸年表(国立国会図書館蔵)より抜粋
昭和天皇の行幸
昭和32年7月8日(月)から10日(水)にかけて昭和天皇・皇后両陛下が山梨県を訪問した。
天皇陛下の来県は戦後は22年10月、25年4月以来の3回目。
甲府へ向かう特別列車が猿橋駅を通過するとの事で、町民、小学生、中学生が日の丸の旗を振り歓迎した。下はその時の写真。