大正年間の猿橋

大原村 村道  (大正9年4月9日 村道認定)
  
   猿橋小沢線  猿橋字大西より朝日小沢宮の橋まで  1里3丁58間
   猿橋小篠線  関谷分岐、小篠横引橋まで      1里4丁

  大原村の道路元標  字大西191番地  (現在の警察派出所前)
      この当時、大原村役場がこの地に置かれていたため

    


猿橋の町並
    

 大正末期から昭和初期の猿橋の町並みを示す絵図。金沢商店の広告が入っているので、この地図の経費を金沢商店(図中の奈良商店)が全部または一部を負担したのであろう。

   ・奈良商店の隣りに煙草元売捌所がある。煙草販売ルートの要。             煙草元売捌所とは
   ・大原村役場は小柳町(現在の警察官派出所の場所)に 
   ・現在の農協支所の場所には甲斐絹同業組合が
   ・猿橋警察署が橋際に                                猿橋警察署
   ・その隣に第十銀行(山梨中央銀行の前身)猿橋支店が
   ・郵便局が仲町、水明楼前に。
   ・小学校は小柳町に
   ・猿橋駅前に巡査派出所
   ・谷村裁判所出張所が小柳町に
   ・大黒屋旅館は橋のすぐ近くに
   ・まだバス便がなかったのか、富士山麓のバス車庫はない。
    戦後にバス営業所、車庫があった辺りに地元最大の企業「都留電灯会社」が
   ・松葉地区には料亭らしき名が
   ・白猿座はすでに出来ていた筈だが表示がない   

大正年間の猿橋  大正13年〜昭和4年頃と想定

   都留中に続いて大月に設置された。
 

猿橋の相対的な地位低下
 大正になって大月が谷村、吉田、河口湖に通じる富士山麓電鉄(今の富士急)の起点となることになり(実際の開業は昭和2年)、この鉄道がやがては山中湖を通って当時の東海道線御殿場につながるなどという計画が発表になり、大月の優位性があきらかになって来た。

 それまで年間3万人以上もの富士登山客が猿橋に宿泊していたが、鉄道開通とともにその客は大月などに奪われる事になる。
 
 また、大正12年4月、郡制廃止にともない郡役所も閉鎖され、猿橋は北都留郡の中心としての地位を失い、県の出先機関などの公官庁が次第に大月に移転して行った。
 同年開校した県立第四高女(後に都留高等女学校)も、猿橋や鳥沢の誘致にもかかわらず、都留中に続いて大月に設置された。



大正年間の大月


 同じ時期の大月の町並図も入手できた。

 年代不詳であるが、富士山麓電気鉄道が開通しているのえ、昭和4年(1929)以降と考えられる。
 
 この鉄道は、大月まで延伸した中央本線を利用して、東京方面からの富士登山客を運ぶために敷設された富士馬車鉄道と都留馬車鉄道による馬車鉄道を前身としていが、両社の軌道が異なるため、途中で乗り換えが必要であり、これを解消するために、両社が合併し、更に電化して大月ー吉田間の運転を開始した。
 昭和4年(1929)、新しく設立された富士山麓電気鉄道に全線が譲渡された。

 この新線の始発点は大月駅の東側(現在は西側)にあり、そこから甲州街道に出て、街道筋を西に向かい、大月橋手前で直角に左折して桂川沿いに谷村の方に向かっていた。まさに市内電車の景色であったろう。
 大月から出て最初の駅は大月橋駅であったが、トンネルで都留高下を通るようになり、大月橋駅が廃止され、最初の駅が上大月になったのは2,3年後の事である。

 大月の町並みもまだ小さく、都留中が西の端、都留女学校が東の端であった。町の規模はまさに拮抗していた時代である。