明治年間の架け替え

 
嘉永3年(1850)に架け替えが行われ、その13年後の文久3年(1863)に江戸時代最後の架け替えが行われている。
 仁科義比古氏の史料によれば、その総工費は1228両3分1朱を要した本格的な架け替えだった。

 慶応4年(1867)3月、勝沼戦争に破れた近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(新選組)は、勝沼から江戸へ逃げ帰る途中、官軍の追撃を防ぐため、猿橋を焼き落とそうとしたが、佐藤彦五郎がそれを阻止したという記事が仁科義比古氏のスクラップの中にある。

 

 文久3年の架け替えから9年を経過した明治5年(1872)橋板の張替えが行われた。
 明治維新により往来が増え、荷物を積載した車馬の通行が増えたため、橋板への過重が急激に増したためであろうと仁科氏は推測している。

 明治13年(1880)、明治天皇の山梨、三重両県巡幸が決まり、このために猿橋も全面架け替えが行われた。
 この架け替えの大きな特徴は、これまで橋巾は1丈1尺(約3.3m)であったが、この架け替えで1丈6尺1寸(約4.9m)に拡幅したことである。通行量の増大を考慮したものであろう。(1丈は10尺)

 新装なった猿橋を明治天皇が渡御したのは、明治13年6月18日。橋畔にあった猿橋警察署に立寄り、ここで輿から馬車に乗りかえた。
 この行幸については明治天皇行幸で委しく述べる。

 明治33年9月にも架け替えが行われている。

 明治時代の猿橋
 賑岡村畑倉の宮野氏撮影

 甲斐国誌に描かれた猿橋
  


 明治33年架け替えの時の設計図
  

 同、周辺地図

 橋畔に「警察署敷地」とある。敷地の中を通っている道は「廻り淵」へ降りる道。
 その下55坪は第十銀行支店、そのとなり55.1坪は大黒屋。

 北詰の方、鳥沢の方から来る国道が鋭角に曲がって猿橋に降りている。往時はもっと遠くまで行って折り返していたと考えていたが現在の折り返しと余り変らない。 
 新猿橋が架橋されるまでの間、数は少なかったであろうが、この折り返しを使って自動車も通行していたのである。
 鋭角であるばかりでなく、急勾配の下り坂なので、運転手はさぞ難義したことだろう。
  
 下和田道の南側にもかなり家があった事がわかる。