大月と猿橋

江戸時代

 猿橋は、宿場町の時代、近隣の宿場町に比べて特に大きな宿場ではなかった。
 下表のように、宿場町の家数や旅籠の数で比べると、下鳥沢、上鳥沢や上花咲、下花咲よりも規模の小さい宿場町であった。
 しかし、江戸初期、秋元氏が谷村城主だった頃に市場があった関係で、猿橋宿は近郷近在の村々の物資の集散地でもあった。
 大月宿は、猿橋に比べてはるかに小さな宿場町であった。旅籠数は猿橋の10軒に対してわずかに2軒。しかし、甲州街道から富士へ向う道がわかれる要衝であった。
 
 江戸末期、猿橋宿の近郷近在の村々連名で、猿橋市場の再開を谷村役所に再三請願している。 この申請者には大月宿も名を連ねている。しかしこの願いは既得権益を守る立場の谷村宿、上野原宿の反対で、実現しなかった。
 この猿橋市場の再開が認められたのは明治になってからであった。

 

明治時代

 明治維新後、猿橋村は殿上村、藤崎村、小沢村など合併して大原村になった。 一方大月村は花咲村、真木村などと合併して広里村となった。

 明治時代の大原村と広里村の人口を見ると下表のように、明治41年(1908)までは猿橋の方が多い。
 猿橋には念願の市場(取引所)が再興され、また北都留郡役所、猿橋警察署、裁判所出張所、税務署などの官庁や、北都留郡の主要産業である甲斐絹の同業組合、さらには猿橋競馬場が設けられ、北都留郡の行政、経済、産業の中心地として繁栄していたのだ。近郷近在から集まる人達のために旅館や料亭もあった。

大正時代

    

 猿橋と大月の人口が逆転するのは大正になってからである。
 転機となったのは、中央線の開通と富士馬車鉄道の開通である。
 
 明治35年(1902)に中央線が大月まで開通し、翌35年(1903)、富士馬車鉄道の大月ー谷村が開通、やがてこれが吉田までの馬車鉄道と合併、連結された。
 富士山麓鉄道(現在の富士急行線)である。。

 上右の表は中央線開通して15年後の大正6年(1917)年の大月駅と猿橋駅の乗降客数と旅客収入である。 大月が圧倒的に多い。
 
 上記の馬車鉄道開通前までは、東京方面からの富士登山客がいわば前進基地のように猿橋に泊り、翌日富士を目指すことが多く、泊り客が年2,3万人もいたが、開通後はその客が中央線で大月まで行き、馬車鉄道に乗り換えて直接富士の方に向かうようになった。 一気に大月が分岐駅としての重要度が高まったのだ。

 このような大月の交通上の優位性に対抗して、猿橋が打ち出した策は、猿橋に宿泊、大菩薩の登山、あるいは名橋猿橋と発電所を見学して、そのままバスで富士山へ向かう観光ルートである。
 下は年代を特定できないが、当時の宣伝チラシ。 
 猿橋から富士山へは、大月を経由しないで行く図になっているが、そんな道はないので、「大月パッシング」を強調したかったのであろう。
 
 

 富士馬車鉄道の始発駅は当初、大月駅の右側にあり、駅前から住宅地を斜めに横切り、甲州街道に出て、まるで市内電車のように街道沿いに西に向かっていたようだ。(下左)
 下右の図は「大月名所」という絵はがき。郵便局前通りとある。
 軌道の間が馬が通行しやすいように土面になっている。 開通間もない頃なのか、住民がめずらしそうに見ている。
 左側の洋式建物が大月郵便局か。遠景は扇山のようだ。


 こうして次第に大月に人が集まるようになった大正時代、北都留郡各村の営業数を知る面白いデータがある。(北都留郡誌)
 主な項目について猿橋(大原村)と大月(広里村)の数字を比較してみる。

物品販売 売薬請負 金貸し 土木請負 宿屋 木賃宿 運送 製造 料理屋 飲食店 湯屋 理髪店 代書業
猿橋 102 39 37 16 10
広里 121 63 19 56 12

 運送業は交通の便の良い大月が多く、売薬請負、物品販売、製造も大月が多い。対して猿橋は料理屋、飲食店、理髪店などの客商売関係が多い。
 郡役所、警察署などがある行政の中心地猿橋には、近郷近在から集まってくる人に対するサービス業種は多いが、交通の要衝となった大月には商業、工業などの業種が集まり始めていた事がわかる。
 しかし、この年代では大月と猿橋はほぼ互角だったと云える。

 


 しかし、この後、交通の要衝たる大月の町の力が次第に大きくなっている。
 象徴的なのは都留中のが大月開校である。
 明治33年(1900)、県内唯一の中学「山梨県中学校」の都留分校が大月に設置された。南都留郡を含む都留地区の只ひとつの中学となれば、南都留の各町村から通う学生、中央線で通う学生の便宜を考えると、大月設置は異論のないところである。 この分校は10年後に独立して都留中学となり、現在の都留高校となっている。

 一度猿橋から大月へ重心が移る傾向はその後も続き、第二次大戦前には人口比が1.8陪程に開いた。
 この間に諸官庁が猿橋から大月に移転している。
   ・北都留郡役所 廃止
   ・猿橋警察署
   ・猿橋税務署
   
 これに伴い、郡内の主要産業である甲斐絹の同業組合も大月へ移転した。
 戦後まで残っていた唯一の役所は登記所の出張所であったが、これも大月に移転し、甲府地方法務局大月支局となっている。

大月市に

 「大月と猿橋」、決定打となったのは昭和29年(1954)の大月市制への移行であった。

  

 市制施行の経緯については猿橋の歴史 昭和編参照

現在の大月市

 大月市発足当時4万1千人の人口は、甲府市に続く第2位だったが、その後次第に人口が減り、令和3年には約半分の2万2千人まで減少している。
 大月の商店街はまさに「シャッター街」であり、猿橋は更に進んで商店だった建物が取り壊されて、普通の住宅風の建物が国道沿いに並んでいる。

 しかし、各町別の人口では大月地区は市制施行時より半減しているのに、猿橋地区は2割減程度で済んでおり、その人口はほぼ互角の約となっている。 これは桂台、四季の丘といった大型団地の開発が寄与しているためであり、猿橋が大月に比べて衰退していない、という事ではない。