明治時代の猿橋

明治維新

 
明治維新は猿橋宿にも大きな影響を与えた。
 折しも後世「猿橋騒動」と呼ばれる宿の有力者同士の権力争いがあり、その決着がつかないまま維新を迎えた。
 猿橋宿が拠って立つ宿駅制度が大改革された。
 
 合宿(ごうしゅく)
  大月市域にあった宿場13宿のうち猿橋宿以外は合併再編の対象となり、6駅に再編された。

  ・上鳥沢と下鳥沢      → 鳥沢駅
  ・猿橋宿          → 猿橋駅
  ・駒橋宿と大月宿で     → 大橋駅(大月の「大」と駒橋の「橋」)
  ・下花咲宿と上花咲宿    → 花咲駅
  ・上初狩宿と下初狩宿    → 初狩駅
  ・黒野田、白野、阿弥陀海道宿→ 笹子駅

 陸運会社の設立
  宿駅制度の廃止

 本陣・脇本陣の廃止た


行政区域の改編
 明治維新で甲斐国4郡(山梨、八代、巨摩、都留)708ケ村(30万7587石)は甲府県を経て山梨県となる。

 
明治8年(1875)2月3 日、猿橋、殿上、小沢、朝日小沢、藤崎、小篠の6か村が合併して大原村となった。
 大原村面積は、東西約36町・南北約45町であった(『山 梨県市郡村誌』)。  
 村政機構は、1875年の「大原村事務所」、 78年(明治11)の「大原村役所」を経て、1884年 (明治17)の「大原村戸長役場」となるが、戸長役場は猿橋に置いた。

 明治11年には全県4郡を9郡に分け、都留郡は南都留郡と北都留郡とに分けられた。大原村は北都留郡の所属となった。

 明治22年(1889)の市制町村 制の施行に当たっては単独で施行し「大原村役 場」を置いた。  『山梨県市郡村誌』

 
 北都留郡誌には大原村について次のように記している。
   
  
大原村
   日本三奇矯の一たる猿橋を有し、甲州街道の要衝にて、猿橋宿は寛文11年宿駅となれり。
   郡役所、警察署、県支金庫等あり。
   村の名は旧村合併の際に起れり。其由緒たる或は郡の中央に位し、平原の地を有するに因めるものか。
     
    殿上:古名殿居ともいひ、文禄検地の際、猿橋と分る。
       又戸野上と書きしが、寛政中殿上と改めたり、と伝ふ。或は殿居小屋といふ旧地名あり。

    猿橋:其名一に橋の名に因めり。此地曾てびく島といひ、鳥沢より渡船にて字藤崎に移りて来往せり。
       時にう山猿断崖の藤蔦を伝はり、対岸に到れるを見、初めて架橋せり。故に猿橋と名づけたり、と伝ふ。
       大嵐村(南都留郡)蓮華寺仏像の銘に、嘉禄2年9月、仏所加賀守猿橋の住人云々、とありしとのことより見るも、
       其名既に久しきを知る。

    小沢:名の起因詳かならず。

    朝日小沢:往古盛里村朝日馬場(南都留郡)の支村なりしが、寛文9年検地に際して分離せり。
         又、小沢と地続きにして朝日に続せし故に此名起れり。

    藤崎:或は福知崎、又は富士崎とも称へた。
       曾て富士の溶岩、峡谷を流れ来りし際、其末端に属し、これより東には発見せられず、故に此名ありと。

 
 明治初期の猿橋は市街地として、どのような地位にあったのか、県下の商業集積度を研究した論文がある。
     「山梨県下びおける明治初期の地方中心システム」 河野敬一
 これによると、下表のように猿橋の市街地の規模は甲府を100とすると僅か5となっている。
 人口は993人で、上野原の半分にも満たない。
 

 
しかし、後に述べるような理由で北都留郡役所が設置され、この地方の中心としての発展を始める。
 下は大正時代の北都留郡の地図である。
 大原村猿橋が地政学的に北都留郡の中心に位置していた事がわかる。

 

 明治7年(1874)、心月寺の本堂で猿橋小学校が発足。    猿橋小学校 参照
 翌8年(1875)には奈良七右衛門方を仮用し、北都留郡全域を管轄する猿橋警察署が設置され、翌年庁舎が完成した。

       猿橋警察署 参照


 明治13年 明治天皇の行啓があり、上野原を発った天皇一行が猿橋を通過、次の宿泊地黒野田へ向かった。
       明治天皇行啓

 明治14年、現在の猿橋中学校の位置に北都留郡役所の庁舎が完成、19年には各郡に1校の高等小学校も猿橋に開校した。
 遠く笹子、初狩からも通学する児童があった。

 23年には大原登記所が郡役所内に併設された。  北都留郡役所 参照

 下の地図は明治21年(1888)当時の地図である。
 現在の猿橋中学校所在地に北都留郡役所(記号◎)、猿橋の橋畔に猿橋警察署(記号X)などが見える。
 村役場(記号○)は現在の警察派出所の所に見える。 街の南にある大きな建物は白猿座であろう。

上記地図の猿橋地区拡大図

 このように猿橋は北都留郡の行政の中心であるだけでなく、前述の江戸時代から懸案の市場も開設され、この地方の特産である甲斐絹織物そのた商品の集散地として、経済的な中心にもなった。
 小さな町にもかかわらず多数の旅館や料亭、遊郭、劇場などもある、文字どうり北都留の中心として栄えた。
 しかし、もともと市街地、住宅地になる土地が狭かった上に、明治35年10月1日に開業した中央線(翌36年甲府までの全通)の猿橋駅を「町の中心に設置すると町がさびれる」などという反対意見が出て、中心街から遠い殿上に設置したこともり、だんだん猿橋の相対的な利便性が低くなって来た。

 同じ時代の広里村の地図を見ると、最も人家が多いのは字花咲で、字大月は現在の市役所、都留高あたりに僅かな人家が見られるだけで、字駒橋とは完全に別の集落であったことがわかる。
 字大月から字駒橋にかけては空白地(恐らく田畑)が広がっており、大月駅が開設されてからの発展の余地が猿橋より大きかった事も理解できる。