新猿橋 この項、一杉進氏の調査結果をもとにしている。
木造の猿橋は、昭和初期まで荷馬車や、普及し始めた自動車も通行していた。 戦車も通行していたことを示す写真もあるという。
しかし、甲州街道(その当時は国道8号線)を鳥沢方面から来ると、橋との高低差が大きく、且つ鋭角に左折し、急坂を下りなければならない。
また、木造橋なので重量制限もあり、これから増大するであろう自動車の通行には適しなかった。。
このため、国道八号線(当時)の改修を検討する山梨県は、猿橋の形を残しつつ全体はコンクリートの橋にかけ直す事を考えていた。
しかし、特殊工法で出来ている猿橋を名勝としてもっと売りだそうとしていた猿橋保勝会は猛反対をした。
このため、県は猿橋の上流にをてかんふぁはなせう地形のため、自動車通行には向かなかった。
昭和7年(1932)、猿橋の少し上流に鉄筋、コンクリート造りの新猿橋を架橋することになり、12月に着工した。
建設中の新猿橋
新猿橋 絵葉書
下はこの新猿橋の設計図と思われる内務省の史料である。
下は架橋前の地図に新猿橋の架橋計画図を重ね合わせたものである。
この新猿橋架橋のために、猿橋の橋畔にあった施設や多くの建物が大きな影響を受けた事情が良くわかる。
また架橋と同時に、北側(地図左側)の甲州街道(その当時は国道8号線)も拡幅し、且つ新猿橋の高さに合わせるため切り下げを行っている。
猿橋北詰の地形 参照
この新猿橋架橋のため橋畔は北詰、南詰ともに、建物の取り壊し移転、接続道路の拡幅、切り下げなど大きな変化があった。
猿橋北詰の変化 猿橋南詰の変化 参照
昭和8年 新猿橋渡り初め 崖下の桜が満開 仁科義比古氏スクラップブックより
渡り初め 郡内の100年より (南詰側から)