網野良男氏の提供史料
現在鳥沢在住の網野良男氏から貴重な史料の提供があった。
網野家は明治・大正期は猿橋小学校の近く(下記地図参照)に住んでおり、祖父網野光敬氏は猿橋警察署長を勤めていたという。
光敬氏は、その後、都留電燈株式会社に勤めたようで、都留電燈(株)の集合写真にその姿がある。(前列右から4人目)
右から5人目は社長の奈良重威氏と思われる。
前列和服姿、背広姿はは経営者達、法被姿の人は現業の線夫(配線工事士?)達。 線夫組頭だけは前列に座っている。
後列中央に線夫副組頭、中列には新入社員か書生らしい人もいる。
更に網野氏の提供史料には極めて珍しい写真があった。「小柳にあった小学校校舎の前身」とされる写真である。
平屋の校舎の前で、軍事教練?をしている写真である。
季節は秋か、時刻は西南からの影が長いので午後の遅い頃と推察される。
この写真を見て、小柳にあった小学校校舎としてはふたつの違和感をもった。
ひとつは、背景の扇山が校舎のほぼ真後に見える事に違和感である。
小柳にあった旧校舎の真後は百蔵山である。(下の写真参照)
ふたつめの違和感は、教練?を受けている生徒が小学生らしくない、現在の中学生くらいに見える事である。
これは高等小学校の写真ではないか?
これらの違和感については別のページで検証を試み、結局筆者の錯覚と、無知によるものであったである事がわかった。
疑問検証 参照
網野家について
網野良男氏から伺った網野家の略史をこちらにまとめた。
叔母網野とよさんの足跡
これらの史料の提供者網野良男氏の叔母(父親の妹)とよさんは、明治36年生れ、猿橋尋常高等小学校の尋常科6年の終了にあたって、優等賞をとっている。
さらに高等科に進み、大正6年に卒業している。(下記は卒業証書と写真)
大正11年には師範学校を卒業し、小学校教員免許状をとっている。
当時の学制では高等小学校(2年)を卒業すると師範学校(予科1年、本科4年、計5年)の入学資格があった。
とよさんは12才で尋常科卒業、14才で高等科卒業、19才で師範学校を卒業しているので、下図の赤点線のコースを
寄り道なく進んで教師免許をとったものと思われる。。
とよさんが教員免許をとってからどの学校に勤務したか不明