猿橋本陣所在地検証
猿橋宿本陣の所在地について、「甲州道中分間絵図」は、甲州街道がほぼ直角に曲がるあたりにあったとしている。
また、脇本陣は二軒あって、一つは本陣から西へ4,5軒目、もう一つは本陣の向かい、街道からやや奥まった所にあると記している。
しかし、地元には「本陣は昔の猿橋病院(現在のナーシングホーム猿橋)のあたりにあった」という説もあり、はっきりしなかった。
今回、色々な史料、絵地図を検討し、この猿橋本陣がどこにあったかを検証した。
1)両説の比較
まず前述の「甲州道中分間絵図」の猿橋宿中心部の拡大図である。
本陣は宿場の中心、甲州街道がほぼ直角に曲がるあたり、諏訪神社へ入る角から2軒目あたりとしている。
また、脇本陣はの一つは本陣のならび、西側5,6軒目にあったとし、もうひとつはその中間の向かい、通りから少し奥まったっところとしている。
ふたつめの脇本陣は「中宿」(現在の花田クリーニング店)あたりと考えて間違いないだろう。
甲州道中分間絵図
一方、「本陣は旧猿橋病院があった辺」とする説を後押しするような絵図がふたつある。
いずれも松葉に在住していた水嶋義雄氏の作と思われる。
(現在の所有者 水越孝之氏)
下図Aでは「甲州道中分間絵図」で本陣としている所が脇本陣となっており、本陣はその脇本陣に裏にある。
下図Bは「大正初期の猿橋」のうち、横町の絵図であるが、この絵図でも本陣は中央線で隔てられた「松葉地区」にあったように描かれている。。
A 明治初年の猿橋宿本陣付近絵図 |
B 大正初期(7年頃)の猿橋 横町の家並 |
この両説について検証を加えた。
「甲州道中分間絵図」の説にについては 猿橋本陣所在地検証1 参照
「猿橋病院辺にあった」の説については 猿橋本陣所在地検証2 参照
結論
検証の結論をいうと、二説ともに正しい、但し時代が異なる。
「甲州道中分間絵図」は文化3年(1806)に「五街道其外分間延絵図并見取絵図」として発刊されたものである。
この当時は本陣、脇本陣はこのように設置されていたと考えて間違いない。
しかし幕末から明治にかけて猿橋宿では大騒動(猿橋騒動)があった。
この騒動によって、幕末に、あるいは明治になってすぐの頃、猿橋宿の有力者の構図が大きく変わった。
これに伴い、本陣、脇本陣の経営者が変わり、場所も変わった。
その猿橋騒動の事情を下記にまとめた。
「新本陣」は猿橋騒動の影響? |
幕末に猿橋騒動という大きな争いがあった。内容については猿橋騒動の発端、決着を参照願いたい。 長い間、名主を勤めていた兵右衛門に対し、半左衛門、東五郎、九郎左衛門等の宿の有力者が、兵右衛門の不正を指摘し、その独断的な施策を批判して、代官所に訴え出た。 兵右衛門もその批判に一々反論し、代官所でも決着が着かなかった。 兵右衛門はそのまま名主を続けており、明治元年の史料(左)をみても名主は兵右衛門となっている。 しかし明治4年(1871)になってようやく騒動は内済(和解)によって解決した。 この大訴訟で兵右衛門家の損失も大きく、長い間勤めた名主、問屋という猿橋宿の中心的な役割から退くこととなった。 何年のことかわからないが、明治元年から4年くらいまでの間である。 右の史料(北都留郡誌)で、明治元年の猿橋宿問屋は兵右衛門となっている。) 本陣、脇本陣廃止の令が出されたのは明治3年10月であり、これ以降はどの旅籠でも、本陣、脇本陣しか許されていなかった玄関、上段の間を作ることができるようになった。 以下は推測ではあるが、 ・名主兵右衛門に対する反対派だった東五郎の後継奈良加蔵(嘉蔵)が本陣を経営する事になり、 これまでの本陣の斜め後ろの場所に新たな本陣を作った。 ・また、これまでの本陣の建物は奈良七郎左衛門が引き継ぎ、脇本陣とした。 脇本陣と「新」本陣は同じ地所である。 ・それまでの脇本陣がどうなったはわからない。 兵右衛門が名主を退き、本陣の主でなくなった時、奈良加(賀)蔵は、なぜ従来の本陣の建物を使わなかったのであろう。老朽化していて、長く使うことが出来なかったのか、それとも別の理由があったのか、歴史の闇にかくれていてわからない。 この「新本陣」の建物、本陣として使われたのはほんの数年間だった、 明治3年には本陣廃止の令が出ているので、その後は普通の旅館として使われたか、取り壊されたかは今後の調査の課題だ。 いずれにしても明治40年の中央線敷設で取り壊される運命だった場所だ。 |