猿橋警察署第24代、26代署長 網野光敬氏
猿橋警察署の第24代および第26代の署長をつとめた網野光敬氏について
・孫の良男氏(鳥沢在住)の提供資料(戸籍抄本、網野家系図の一部)
・国会図書館蔵の「山梨県警察沿革誌」
等により、経歴、職歴をまとめると次のようになる。
経歴
・文久元年(1860)5月23日、甲州市三日市場地域の土豪として中世以来の歴史を持つ網野家当主網野志兵衛の長男として誕生。
網野家の歴史
・明治14年(1881)9月23日、東山梨郡玉宮村下竹森、野尻市郎右衛門三女丑ノと結婚
・明治19年(1886)、山梨県巡査を拝命。 この間、どのような教育を受けたかは不明。
この警察勤めには妻丑ノは猛反対、一時実家に帰ってしまうという騒動があったようだ。(良男氏談)
・明治29年12月、36才の時、鰍沢警察署小笠原分暑長に就任、はじめて県警の役職者名簿に名を連ねる。
小笠原分暑:明治6年10月に巡査屯所開設。同10年に鰍沢警察署小笠原分暑と改称。
同24年、竜王警察署小笠原分暑となった。後に独立して小笠原警察署となっている。
・明治31年10月30日、38才の時、長坂地区警察署台が原分暑長に転任
台ヶ原分暑:明治6年、台ヶ原に屯所を置いたのが起源、同8年韮崎警察署台ヶ原分暑となった。
大正年間に分暑は廃止、日野春警察署管轄となり、更に戦後長坂地区警察署管轄となった。
・明治33年11月3日、40才で谷村警察署吉田分暑長に転任、階級は警部。
吉田分暑:明治14年、谷村警察署吉田交番所開設、同24年に吉田分暑と改称。
大正8年に独立して吉田警察署。
・明治35年3月17日、42才で市川警察署署長に昇格。
市川警察署:明治9年、南巨摩警察署市川分暑開設、明治22年西八代郡警察署、同27年に管轄区域替があって市川警察署に改称 。
市川警察署(山梨県警察沿革誌より)
市川警察署には1年余の勤務だったが、この時の写真が残っていた。(網野良男氏提供)
右端に5、6才の子供が写っているが、網野氏の三男晃(明治30年生まれ)か?
サーベルを持った署長の光敬氏 拡大
42才くらい
当時のサーベルと肩章
・明治36年7月29日、竜王警察署長に転任。
・明治38年3月13日、45才で猿橋警察署長に就任。(猿橋警察署 参照)
・明治39年10月3日、鰍沢警察署長に転任
鰍沢警察署:明治9年、南巨摩警察署として開設、小笠原分暑、市川分暑、南部分暑などが分離独立し、
管轄が鰍沢地区だけになったので鰍沢警察署と改称。
・明治41年6月10日、再び猿橋警察署長に就任。
・明治43年3月31日、50才で猿橋警察署長を退任、警察官退職。
「山梨県警察沿革誌」によれば、2回目の猿橋警察署退任は43年3月31日となっているが、北都留郡誌では44年4月とある。
この約1年の差は不明である。
山梨県警の資料には明治43年4月以降に網野氏の名前はない。
当時の警察官定年が50才だったのか55才だったのか不明であるが、その後に勤務した都留電燈の事情で早期退職したのかも知れない。
・年月日 不祥 猿橋に本社があった都留電燈株式会社に入社。 事務部門を担当した模様。都留電燈参照
その後、東京電燈に移る。
この頃の都留電燈前の集合写真、および網野氏拡大写真 (網野氏 50才くらい)
・大正13年 退職
・昭和7年6月18日、東京市牛込区富久町にて死去。この時代の人としては長寿の92才であった。
墓所は恵林寺。
猿橋時代の住居
光敬氏は猿橋警察署の署長を2回勤めている。
「山梨県警察沿革誌」によれば、2回目の猿橋警察署退任は43年3月31日となっているが、北都留郡誌では44年4月とある。 この約1年の差は不明である。
山梨県警の資料には明治43年4月以降に網野氏の名前はない。
当時の警察官定年が50才だったのか55才だったのか不明であるが、その後に勤務した都留電燈の事情で早期退職したのかも知れない。
この当時、猿橋警察署は上野原分署を含めて北都留郡全体を管轄しており、北都留郡長と並ぶ地域の官僚トップとも云える立場だった。
猿橋警察署長在任中は当然署長官舎に住んでいたと思われる。
署長官舎
。
水嶋翁の明治年間の絵図を見ると、郡役所から心月寺に至る高台に「署長官舎」、「部長官舎」、「郡長官舎」が並んでいる。
この「署長官舎」が猿橋警察署の署長官舎であろう。
正確な場所はわからないが、郡役所の一段下、南側。現在は拡張された猿橋中学校のグランドあたりで、南向の官舎からは眼下に猿橋町一円、および橋畔にあった猿橋警察署を一望できる見晴らしの良い所だ。
階段を降りて、橋を渡れば猿橋警察署である。
都留電燈時代
都留電燈時代は小柳町の猿橋小学校に近いところに住んでいた事が水嶋翁の大正町並図(下図)で確認出来る。
この絵図によれば、「ちよせ」の隣りに「網野」とある。
これが退職後に買い求めたか、借家した当時の私宅だと考えられる。
また同時期の絵葉書「猿橋の全景」にも光敬氏が住んでいたと思われる家が確認できる。
光敬氏には三男があり、二人の男子は早世、三男の晃氏(明治30年9月28日生)が相続人となった。
この妹(五女、明治36年1月8日生)が良男氏提供資料で紹介した、猿橋小学校で優等賞をとり、後に教師となったとよ女史である。
晃氏は職を得て横浜小港に住み、発電所の建設工事などを担当する技術者だったようであるが、第二次大戦による空襲が激しくなったため、晃氏の奥方の実家があった富浜村小向に疎開した。
今回の情報提供者である良男氏は、そのまま小向に住み着き、現在も同地に居住している。
網野家には、警察官当時に使っていたと思われるサーベルが残っているという。